年代 | 作曲 | 作詞 |
1813年 文化10年 |
4代目 杵屋六三郎 |
二代目 桜田治助 |
文化十年六月の森田座の公演は『尾上松緑洗濯噺』という四代目鶴屋南北の作品が上演された。その興業の大切りに『閏茲姿
八景』という八変化舞踊を七代目市川団十郎が演じた。『晒女』はその七番目のプログラムだ。
この作品は団十郎が奉納した絵馬から、近江八景になぞられた人物が飛び出てきて、悪者を翻弄しながら踊るという作品。
初代市川団十郎は「江戸の氏神」と呼ばれ、以来、江戸の歌舞伎ファンたちは歴代の市川団十郎に正義の味方のヒーローという姿を求めた。
七代目市川団十郎。五代目の孫。六歳の時に河原崎座で初舞台。演目は『暫』。勝川春英がこの『暫』の団十郎(当時は新之助)を錦絵にしているが、とてもとても六歳の男の子という感じがしない。まあ、絵ですから、色々と演出あっての作品だと思いますが。
六代目団十郎(五代目の養子。七代目とは親子関係ではない)が急逝して、まだ幼い十歳で市川団十郎という大きな名前を襲名する。早替わりを得意としたそうだ。また、この七代目が市川宗家の『歌舞伎十八番』を制定した。
『閏茲姿八景』の構成は、
・長唄『姫垣の晩鐘』(乙姫)
・長唄『浦島の帰帆』(浦島)
・常磐津『滝詣の夜雨』(景清)
・常磐津『水売の夕照』(冷水売)
・長唄『せきぞろの暮雪』(節季候)
・長唄『心猿の秋の月』(心猿)
・長唄と常磐津の掛け合い『晒女の落雁』(晒女)
・長唄『石橋の晴嵐』(石橋)
現在残っている曲は『晒女』と『心猿』の二曲だけだそうです。
浦島も石橋も今ある曲とは違うのですね。
鎌倉時代の初めに、近江の国海津の遊郭に大力無双で有名なお金という遊女がいたと『古今著聞集』によって伝えられる女性がモデルだと言われている。
彼女は、物に驚き狂い走る馬の差縄を高下駄で踏み、これを留めたところ、その足駄は足首まで砂に埋まった。また、手をさし出し五本の指一本ずつで弓を張り、一度に五張を張ってみせたほどの怪力。大の男が5、6人かかってもその怪力にはかなわなかったと伝えられている。
この舞踊の舞台は近江八景のひとつの堅田となっている。暴れ馬を制そうとお兼が登場。伝説同様、高下駄で手綱を踏んで馬を制する。近江の荒くれ漁師と立ち回りかと思うと、近江の美しさを語り、女心を語る一面もあり。最後に晒を軽々と豪快に振るという見せ場あり。なかなか見応えのある演目です。
さて、豪傑で有名な女性はお金(お兼)ばかりではありません。
「日本の女傑」で色々検索して必ず出て来るのが、
神功皇后・巴御前・日野富子・北條政子。まあ、力持ちと豪傑は違うでしょうが大昔から男性顔負けの豪快な女性がいるという事ですね。