- 長唄全集(8)石橋/外記猿/楠公/芳村伊十郎(七代目)
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一張の弓の勢いは、月心に中り、三尺の剣の光りは、霜腰に在り
頃は皐月の末つ方、楠判官正成は、君の仰を蒙りて、一族郎党五百余騎、
今日を最後と九重の、都を後に手束弓、駒をば暫し桜井の、宿に止めて
青葉蔭、嫡子帯刀正行を、近く召して申けるは、
如何に正行聞き候へ、獅子は我児を千仭の谷へ、落して気合を見るとかや、
況して汝は十一歳、父が教を忘れなよ、抑今度の合戦は、天下分目の曠軍、父は兵庫に討死と、
心決して候ふぞ、汝は是より故郷へ、疾々帰れと促せば
正行涙せきあへず、争で是より帰るべき、抂げても伴ひ候へや、
正成心を励まして、聞分けの無き我子かな、我亡き後は将軍の、天下となりて日月は、
光を失ひ申すべし、汝一旦の身命を助からんとて、敵に降り候ひそ、生残りたる郎党を
扶持して再び旗を挙げ、叡慮を安じたてまつれ、是第一の孝行と、形見に与ふ恩賜の刀
正行これを押戴き、泣く泣く帰る後影、
見送る父は鎧の袖に、伝ふ涙や郭公、声を残して西東、別れてこそは下りけれ
去る程に、淡路の瀬戸や鳴門の澳、霞の晴間を見渡せば、数万の兵船漕ぎつらね、
帆影に見ゆる山も無し、陸は播磨路須磨の浦、鵯越の方よりも、二つ引両四つ目結、輪違の旗翻飜と、
磯山風に吹き靡かし、雲霞の如く寄せかけたる、敵を前に正成は、湊川にぞ陣を取る。
敵と味方の閧の声、箙の音におどろきて、沖の鷗のちりちりぱっと、
海陸一度に震動し、射出す征矢は秋の木の葉、打合ふ太刀は電光石火、群松原の樹がくれに、
菊水の旗ひるがえし、楠判官正成と、名乗って戦ふ決死の勇将、五十万騎の真中へ、
駈け入り駈け入り、三時に亘る合戦に、人馬の息を休めけり。
斯かる所へ左馬頭、新手を代へて立ち向ふ。
正成兄弟物ともせず、或は引組み或は蹴散らし、一歩も退かず戦ひしは、
実に忠臣の鑑ぞと、美名を末世に残しけり