年代 | 作曲 | 作詞 |
1828年 文政十一年 |
10代目 杵屋六左衛門 |
二代目 瀬川如皐 |
『越後獅子』や清元の『女太夫』を組み合わせたような形式になっている。本名題を『后の月酒宴島台』。江戸市村座で初演された演目だそうです。(資料によっては中村座というものもある)
この文政十一年九月の市村座の興業は『絵本合法衢』という狂言。第一番目三立目。つまり一番目狂言(時代物)の序幕にあたる出し物として初演された。初演時はこの演目の前に『舌だし三番叟』が踊られていて、引き抜きでこの曲に移行されたのだそうです。
三番叟→角兵衛:三代目中村歌右衛門(成駒屋)
千歳→鳥追えくぼのおとみ:五代目瀬川菊之丞(浜村屋)
翁→いさみ橋場の松五郎:五代目松本幸四郎(高麗屋)
という感じで三人で演じられた。
もともとは常磐津との掛け合い。常磐津の部分の作曲は岸沢式佐(後の“古式部”)が担当した。
現在、『角兵衛』が舞踊で出される時は、常磐津の演目として踊られる事がほとんどである。また、出演者は角兵衛と女太夫(鳥追い)の二人である。
歌詞を読むと、きちっと初演の三人の屋号が組み込まれているのに気が付いた。
長唄の歌詞を読むと、時々こういうのに出会う。歌詞を読むと「誰のために作った」とかそういうのが分かっちゃう。昔の人は抜かりないというか、言葉遊びが巧みだったのですね。
角兵衛獅子は新潟県新潟市南区(西蒲原郡月潟村)を発祥とする郷土芸能。
太鼓打ち一人、笛吹き一人、獅子舞四人というチームでアクロバット的芸を街頭にて披露する大道芸の一つである。
だいたい、太鼓打ちあるいは笛吹きが「親方」と言われる成人。親方=角兵衛。子供たちが獅子で、チームを指して「角兵衛獅子」なのだそうだ。
獅子舞を演ずる子供たちは、口減らし等々で売買された子供たちだ。屈託のない笑顔に哀愁ありという感じがする。
さて、
「獅子の洞入り洞がえり」という歌詞があるが、これは写真の子供たちがブリッジをして表現しているけれど、これが獅子の洞入りだそうです。
もともと、獅子舞はインドから由来したもの。十六世紀初めに伊勢にて飢饉や疫病を追い払うために始まった芸能。十七世紀に入って江戸に下り、悪魔祓い・世を祝う縁起物として定着した。
「獅子が洞の中で休んでいる、おびき出して悪を払おう」。つまり、神に仕える獅子を利用して悪魔を払おうという事です。
だてに牡丹に興奮して、胡蝶と戯れ遊んでいるわけではないのだそうです。
この歌詞を読んでいると、『越後七不思議』が組み込まれているのだそうです。
一、鳥屋野のさかさ竹(西方寺)
親鸞が竹杖を逆さに土にさしたところ根が生えたと伝えられている。竹の枝垂れは珍しく国の指定天然記念物 だそうだ。
二、焼鮒(山王神社)
体に黒い焦げ目模様のついているフナ。1211年(建暦元年)11月、親鸞が赦免され当地を去る際に催された酒宴の肴に、焼いたフナが用意されたが、親鸞が傍らの榎に纏っていた袈裟を掛け「わが真宗の御法、仏意にかない、念仏往生間違いなくんば、この鮒必ず生き返るべし」と唱えてから池に放したところ、生き返り泳ぎだしたと伝える。
三、小島の八房の梅(梅護寺)
ひとつの花に八つの実がなる八重咲きの 梅。親鸞が植えた梅干しの種が育った。
四、数珠掛桜(梅護寺)
花が長く房のようにつながって咲く 桜。親鸞が数珠を掛けたからと言われている。
五、保田の三度栗(孝順寺)
一年に3度実がなるという栗の木。親鸞が植えた焼き栗が育った。
六、田上の繋ぎ榧(了玄寺)
実に糸でつながれていたような穴のあるカヤ。
七、片葉の芦(居多神社)
葉が片側一方向にだけ伸びるアシ。
親鸞の伝説に基づいた七不思議。
・柄目木のくそづの油
・三条山の妙法寺の火の出る竹筒
・日蓮が佐渡に流された際に角田岩山沖「南無妙法蓮華経」とお題目が浮かんだという伝説。
などほかの七不思議入りも組み込まれている。
ネットなんてない時代。江戸時代の劇作家たちの幅広い知識。どうやって知識を広げたのか、それこそ七不思議のひとつです。
写真は
http://oldphotosjapan.com/ja/photos/545/kakubeishishi
からお借りしました。