宝林寺から、佐々木閑先生をお呼びして講演会をするという連絡をもらった。七夕の今週日曜だ。その前の晩は交流会だそうで、せっかくなので参加させていただくことにしてあったのだけれど、結局、母のことがあって欠席の連絡をした。
佐々木閑先生は花園大学の教授で、しばしば円覚寺の横田老師と対談されたり、円覚寺に招かれてお話などされている。
僕が宝林寺に初めて坐禅に行ったのが、2010年くらだったか、9年くらいだったか。古珠和尚は、佐々木閑先生の"日々是修行"という本を推薦してくれたのだった。面白い本で、世界で一番仏教徒が多い国はアメリカであると書いてある。僕はサンフランシスコ禅センターで坐禅したことがある。本当に、熱心に坐禅をするアメリカ人たちがいる。マック(ハンバーガーではなくてアップルコンピュータ。いうまでもないか。)を作ったスティーブジョブズもサンフランシスコ禅センターに通っていたりもしたようだ。
病を得て57の若さで遷化されることになる古珠和尚と、病床での会話をしたとき、ふたたび”日々是修行”の話題になった。僕は和尚に質問し、和尚は病に侵されて動けないというのに、言葉と表情と声がしっかりした、ありえないようなエネルギーで答えてくれた。そんな和尚は、その数日後に、また何の奇跡か、しっかり起きて来られ、法話をし、5人展の祝賀会で元気な姿を見せられたが、次の日に遷化された。その遺作となった法話の録音が残っている。本にもなった。
和尚は、この最後の法話の中で、病身とは思えない大声を出すところがいくつかある。一つは、最後のほうで、四弘誓願というものは、山雲海月が、お前はもう笑ってていんだよと、言ってくれていることなのだと叫ぶところ。もう一つは、5人展を開催した若い作家たちに、”さあ出してみろ(ここは彼らに向かってそう言っているのだろうと奥様が言っていた)”と励ますところ。もうひとつは、
--- あの子困っているんだよ
というところ。あの子は困っている。どういう意味か。ある新聞の記事が和尚の心に残ったという。それは、どこかの学校のクラスでの話。ある子どもが、いつも問題ばかり起こして困っている。そのとき、
-- ああ困った子だな
というか。
ーー 困っている子なんだ。
ーーーー あの子 困ってるんだよ!!!(大声)
というかで、クラスの雰囲気ががらっと変わってくるんだそうです。と言った。その大声があまりに真に迫っていたので、なにか深く思い入れをその記事に抱かれたと思った。
急にこれを思い出したのは、実はこんなことがあったからだ。私の小学2年生になる孫が、学校でどうもクラスの子たち複数からカンニングしたとかいわれて、してないとか、したとかもめたらしい。 先生も入ってすこし厄介な問題となった。 孫は自閉症スペクトラムといわれている。先生の話をきいてないことがある。指示が通らないときがあると一年の時の担任が言った。おおかた、先生の話をきけてなくて、なにしていいかわからず、まわりをきょろきょろみてマネでもしたといったところだろうと察した。それをカンニングというのだと、本人はわからなくても、人はカンニングという。カンニングをするというのは、たしかに困った子だ。だがまてよ。実はこの子が困っているんだ。そして和尚の最期の法話の中の大声を思い出した。
和尚のお父上様が、あのときお葬式に来られていた。ご長男が教師となって地元にもどってくることを望んでいたが、僧侶という好きな道を生きていった、それで幸せだったのだと思う、という話をされていた。もしも和尚が教師になっていたら先生をしている和尚はどなんだったろう。夏休みこども坐禅会にはたくさん子供たちがきていた。和尚の、”あの子 困っているんだよ!!”の声があまりにも大きかったから、和尚は子供たちを見ながら、困っている子供がいたら、大人が気が付いてやらなくてはならないのだということを伝えたかったのだろう。もしも、先生になっていたら、どんなに子供たちを大切にする先生になっておられたことだろう。上から目線で誰かから聞いたような教えを垂れるようなところがみじんもない和尚だった。そんなことを思ったら、なぜか泣けてきた。