夫がどんなに遅く帰ってきても

疲れ果てて帰ってきても

飲んで帰ってきても

やるべき仕事を抱えていても

10分でもいいから

”必ず”二人だけで話す時間を持つ

 

必ず

ただの一度も例外を作らぬということ

 

森先生、きびしぃ〜!!!!!

 

でも初めて、

父親にも厳しいことを言ってくれた!

と、少し嬉ししくなった笑

 

 

ただ、

話しは愚痴や泣き言にならないように、

とのこと。

一日の安らぎと感謝と喜びの時であれるように配慮があるといいとのこと。

 

 

夫婦の在り方は子どもの人間教育の基盤的な意味を持つ

 

妻は、

夫婦の在り方を正しく明るくするように努力するのが、真の生きた叡智

と書いてあった。

 

結局、また女任せですか?

 

夫婦関係がうまくいってないとしたらそれは女のせいですか?

 

相手の未熟さを背負うのは女ばかりなのでしょうか?

 

と思わなくもないが、

 

裏を返せば!?

女次第。

 

家庭の幸せは女が握っていると言えるのかな〜

と思うと、こちらに主導権があるような気がして悪い気もしない。

 

だた、権利(主導権)があるということが、責任や義務もあるわけで

その意味で、

森先生は、女性には厳しく聞こえてしまう言葉を並べているのかな、

とも思った。

 

家庭の幸せに対する責任は夫と妻で半分ずつ

子どもの教育に対する責任も夫と妻で半分ずつ

家計も夫と妻で半分ずつ

 

一見、公平なようなきはするけど、

 

男として、女として生まれてきている以上、

違いはあって。

 

差別には反対だけど、区別には概ね賛成。

 

得意不得意もあるしね。

 

昔、一緒に働いていたロシア人の同僚が、

僕は仕事になると仕事のことして考えれない。

でも妻は、仕事をしながら、幼稚園に電話をしたり、晩ご飯のメニューを考えたりしてる。

と言っていたことを思い出す。

 

男性は

女性はマルチタスク。

 

我が家でも、

夫にたくさんお願いすると

いくつか抜け漏れがあることは、決して少なくはない(笑)

 

子どもの幼稚園情報の収集も私の方が得意だと感じた。

でも、私は決断力には欠けて、、、

夫の決断に「なるほど!」と思うことは多い。

 

自分がしていることと同じことを相手に求めるのではなく、

 

自分だとできないこと、

できるだけど相当な努力や頑張りが必要なことでも、相手にしたら、簡単にできること、やり甲斐を感じることはある。

 

 

女性には、私が家庭の幸せを握っているという

責任と誇りを感じながら

 

 

夫を掌で転がす?というのはちょっと違うか笑

またビックリマークが3つ、、、

 

非行の根本原因は家庭が正常ではないことに集約される

 

子どもの飛行を防ぐには、

家庭を楽しい場所にするしかない

 

そのためには、

①年頃の子をムヤミに叱らない

②子どもの前で夫婦喧嘩をしない

 

夫婦喧嘩をするなとは言わない

”子どもの前では”するな、ということだ。

 

両親の不和や喧嘩ほど、

子どもにとって家庭を不愉快にするものはない。

外向的な子は非行

内向的な子は鬱、引きこもり

 

夫婦喧嘩を避ける根本程度(秘訣)

当てを言葉によって説教、教育しようと思うな

夫婦のどちらか一方が、相手の不完全さをそのまま黙って背負っていく。

 

いや〜不公平すぎる、と思った私。

 

そこには結婚、夫婦に対する前提の違いがある。

森先生は著書の中で、

夫婦はお互いに「業」を果たすために結ばれた間柄である。

この点に腰がすわるまでは、夫婦間の動揺は止まない。

 

 

分からなくはないんだけど、

苦労すると分かっていて結婚する人はいないわけで、、、

 

好きだから結婚する!

幸せになれると思ったから結婚した!

という人が多い現代では、

「業」を果たすと言われても、、、といのも分からる。

 

そもそも「業」とは?

サンスクリット語のカルマの訳語

カルマに良いイメージがない私だけど、

カルマに良い悪いはないらしい!

 

善意と善行は良いカルマと幸福な転生をもたらし(善因善果)

悪意と悪行は悪いカルマと悪い転生をもたらす(悪因悪果)

 

生まれ変わりを信じていない人には、

そもそも受け入れ難い話しかな?

 

私は生まれ変わりを信じているので、

なんとなく

 

 

また私の話しなんだけど、

結婚って縁によるところも大きいよな、と思う、

 

私は、

自分の意志で夫と結婚したいと思ったし、

結婚すると決めた。

 

と同時に、

巡り合わせやいろんなものが重なって、

結婚に導かれていったようにも感じている。

 

例えば、

夫と出会うタイミングが違っていたら結婚はしなかったと思う。

男に頼る生き方はしない!

という価値観を握りしめていた頃の私は、

夫の魅力に気づけなかったと思う。

 

夫はまだ結婚する気はなかったけど、

実母の病気が分かって、

結婚する気持ちを固めて、時期を早めたというのもあって。

 

 

だから、

魂が、

自分の業が果たせる相手を

今のあなたなら果たしていける

と導いてくれているような気もする。

 

 

私は結婚して、8年。

「離婚してやるー!」と思ったことはある。

でも、これって相手を変えても変わらない。

結局、自分の中の課題で

課題は終えない限り、形を変えて何度もやってくる気がする。

 

課題は業なのかもしれない。

 

相手のせいにするのではなく、

自分が果たしていくと決めた時

天は味方してくれるのかもしれない

 

良い時も悪い時も

それが魂の成長につながっていると思えば

業の果たし甲斐もあるのではないか?

 

と、今回はスピリチュアル系になってしまった。

この章をまとめると、

 

父親は、

我が子の一挙一動に小言を言わない。

よほどのことでない限り絶対叱らない。

 

怒っていいのは、

放っておいたら我が子の一生に関わる問題だと察知した時だけ。

 

逆に、褒めるのはOK!

褒めまくってOK!

 

確かに毎日怒られていたら、

またかー

という感じで、効き目が薄そう、、、

 

 

私が父に怒られたのは一度だけ。

母のことを「クソババ」と呼んだ時だ。

当時、小学校高学年だったんだけど

めちゃめちゃ怖くて布団に隠れていたら

その布団を剥がされて怒られた。

 

今振り返ったら、

そんなに怒ること?と思うけど、、、

 

それ以外に父に怒られた記憶はない。

 

 

家の中で、

パパに威厳が無くなったら、ママ的にも不便だなーとは思う。

 

ママが言っても言うことを聞かなくなった時、

じゃあ、パパにも話すね。

と言うと、子どもたちが怯えるというか、

背筋が伸びる感じはあって欲しい。

 

それが、別にパパに言われてもOK〜

みたいになっちゃうと、

家の中での序列がなくなる。

 

では、威厳はどうやって作られるのか?

保たれるのか?

 

その一つに”頻度”があると思う。

 

狼少年の話しじゃないけど、

 

いつも怒られていたら、「またか」感は否めない。

 

我が家では、

子どもに対して、

一挙一動の小言は母親の担当

人生を左右末う大きな問題は父親の担当

で、しばくいってみたいと思う。

 

ちなみに父親が子どもを褒めるのはいいそうだ。

褒めれるだけ褒めていいそうだ。

ビックリマークが3つもついてる、、、

よっぽど大事なのか。

 

この章で書かれていることをまとめると

 

父親を軽視すると、

父親への不信感が募り、

我が子が根本的にダメになる。

 

そのために、

母親は、父親を立てる

なぜなら、子どもは母親の父親に対する態度から、

父親の偉さを感じる。

 

男の世界は厳しく凄まじいものなので

妻は夫の大変さを察し、

子どもに父親の偉大さを伝えよ。

 

らしい。

 

 

質問、言い返したいことはいろいろある(笑)

 

 

●我が子が根本的にダメになるとはどういう状態か?

→これについては書かれていない。

 

●父親はがアル中でも軽視してはいけないというのか?

→アル中の場合とは書いてないけど、

「いかなる事情があっても父親軽視のタネマキはするな」

と書いてある。

 

 

妻として夫を立てろ、とは書いてない。

妻として、夫を尊敬できなくても、

子どもの母として、子どもの父を立てることはできるのか?

 

確かに、私にとっては夫であって、父親ではない。

他人の父親を悪く言わないのなら、

我が子の父親を悪く言わない、というのも

解せなくはない。

 

 

男の世界は厳しく凄まじいというが、

今は働く女性も多く、女の世界だって厳しく凄まじいものがあると思う。

子育ての中にだって辛さはある。

 

ただ、

夫が仕事での泣き言や愚痴を言っているのは聞いたことがなくて。

 

それに比べて

私は子育ての泣き言や愚痴を夫に聞いてもらっている

 

そういう意味では、

男は口にしないだけど女性より忍耐しているのかもしれない。

 

家の外での厳しさと家の中での厳しさは種類が違うとも思うし

 

家より会社の方が心地が良い人もいるかもしれない

 

個々のケースを考え出したら、

「〜は○○なものだ」と抽象化ができないんだけど。

 

とりあえず、

私は、我が子が、父親を軽視することに繋がるような

言動は控えたいと思う。

 

その理由の一番は、

やっぱり森先生の言ってることだから、

まずはつべこべ言わずやってみたい。

 

あとは、

私は、夫をよい父親と思っているから。

 

 

ここで、

私自身の幼少期を振り返ったみたい。

 

 

私の父は、借金を苦に失踪した。

 

そんな父を、まわりの大人は悪く言った。

 

そのせいにするわけじゃないけど、

気がついたら私は父を尊敬しなくなった。

 

父親軽視は、世の中の全ての男性へと向けられた。

父親軽視は男性軽視への姿を変えた。

 

男に頼りたくない男勝りな生き方の必要性を感じ

キャリアウーマンに憧れた。

 

いくつか恋愛もしたい

男性の女子もいたけど、

私はどこかで男の人をバカにしていたのかもしれない。

 

どうせ男は、と。

 

でも本当は守られたかった。

父に守って欲しかった、頼りたかった。

父を尊敬する家庭で育ちたかった。

 

本当は、男の人に守られたい、、、

それが私の本音だったよう思う。

 

 

もし、

父が借金を苦に失踪した時、

まわりの大人たちが、

今回、お父さんがしたことは許されないことだけど、

でも、あなたのお父さんには素晴らしいところがあった

というような言い方をしてくれていたら

父親軽視は軽症で済んだのかな。

 

 

という訳で、

私は自分の人生を振り返った時、

父親軽視がいいものはと言えない。

だから、我が子には、その逆をやってみたいと思うのだ。

 

 

子どもにとって家族は小さな家庭。

父親は世界で一番、頼り甲斐があって、

母親は世界で一番、愛に溢れている、

 

幼少期にそんな風に感じることができたら、

その子の世界はそういう風になっていくのだと思う。

我が子の子育てを日本の発展と世界の平和に役立てたい。

「家庭教育再興計画」準備中

たなゆかです。

 

 

 

「わが子の人間教育は両親の責任!家庭教育21カ条」

 

読み進めていきましょー。

 

 

第二章

「親のいうことをよく聞く子する秘訣」

 

 

最近、

長男が全くいうことを聞いてくれなくて疲れて果てています。

 

 

一回で聞いてくれない。

優しく言っても聞いてくれない。

「いかん、いかん」と思いながらも、

ヒートアップを止められず、

最後は怒って言うことを聞かせてしまう。

 

根本解決になってないからね、

次の日も同じことが起きる。

 

それに引き換え、

割と、いや、かなり聞き分けのいい長女。

 

聞き分けがいいとそれはそれで心配になる。

 

一体、どうなればいいんだ(笑)

 

 

と、前置きが長くなったんだけど、

 

この章をまとめると、

 

 

●家庭教育の根本は躾にあり

●すべき躾は3つだけ(挨拶、ハイ!の返事、履き物を揃える)

●3つの躾は小学校に入る前までに終えること

●それ以降は子どもに”我”が出てくるから躾られない

●子どもを躾る母親も我を抜かなければならない

●我の抜けていない母親に人間教育をする資格は無い

 

 

いやーきついっす、森先生。

え、子どもの前に母親ですか、、、

 

 

ちなみに、

その”我”というやらは何者で?

どうやったら抜けるのでしょうか?

 

 

子どもに注意したり、怒ったりしながら

「私は随分、自分のことを棚に上げてるよな〜」

と思うこと、ありませんか?

 

 

●使ったものは元の場所にしまう

●明日の準備をする

●すべきことを先にする

●お菓子を食べすぎない

 

 

どれも私だって完璧にできていない。
私を注意する人がいないからいい気になってるだけ。

 

 

自分ができていないことが良いとは思っていないから、

子ども達には私のようになって欲しくなくて

注意してるってのもあるかな。

 

 

今は子どもが小さいから逆らってこないけど、

もう少し大きくなったら

「お母さんに言われたくないわ」となりそうだよなー
という危機感は感じてる。

 

 

なんかのドラマで、

「子育てなんて自分のこと棚に上げないとやってられないのよ!」

というセリフを聞いて以来、

自分のことを棚に上げる許可を出してきたんだけど(笑)

森先生は許してくれなかった。。。

 

 

「我をとる」とネットで検索すると、

いろいろ出てきた。

 

 

神社の神棚には「鏡」があって、

「鏡に映る自分自身の神を拝み、自分の行動を自覚する」ためらしい。
“かがみ(鏡)”の中の自分から

“が(我)”をとると「かみ(神)」になる。

 

 

古来、日本では、

我をなくすことが神の道に通じるとされていたそう。

天皇陛下には「私=我」がない、

だから神なのだそう。

 

 

今の私には、
我をとりきってしまうことが良いこと
だとは思えきれない。

 

 

 

だって、”我”だって大事ない?

「私はこうしたい」という自分の欲もあってもよくない?

人の為に自分を犠牲にするのは違う気がするし、

我慢のしすぎも良くないと思う。

 

 

もちろん、

「自分さえよければいい」というのも違うんだけど。

 

 

塩梅が難しい。

あなにも良くて、私にも良い

みたいな世界観は目指せないものなのだろうか?

 

 

森先生や渡部先生は、

著書の中で、

「中途半端に学歴をつけた鼻持ちならないメンドーな女」

みたいなことを書いてるんだけど、

「これって私のことだよね」と自覚あり(笑)

 

 

ちなみに、

躾3か条はこちら

 

①朝必ず親にあいさつ

②親に呼ばれたら必ず「ハイ」とハッキリ返事

③履物を脱いだら必ず揃え、席を立った必ずイスを入れる

 

 

①と②を軌道に乗せるコツは、

母親が、

・朝起きたら夫に挨拶

・夫に呼ばれたら「ハイ」と返事

を実践することらしい。

 

 

「母親の我がとれると、子どもの我もとれる」

というカラクリなのか。

ありそだな。

 

 

挨拶はOK!できます!

夫に呼ばれたら「ハイ」も、、、で、できます!やってみます!

 

返事=その後に言われたことも従う

ってことではないもんね?(え、ひねくれてる?笑)

 

 

とりあえず、森先生が言ってるから

躾3か条を自分に実践中の40歳でございます。

 

 

 

「靴は揃えるもの」

「椅子は入れるもの」

 

「○○は〜というもの」

その子の基準になるものを幼児期に獲得させてやるべき、

と息子が通う幼稚園の天野園長も言ってたな。

 

風の谷幼稚園の素晴らしさはまた別の記事で。

 

その時は「ふーん」くらいにしか聞いてなかったけど。

 

確かにそうなのかもしれない。

 

親が教えようが教えまいが、

子どもは成長の過程で、

「これはこういうもんだ」という価値観を身につけていく。

 

どうせ身につけるなら最高のものを!だよね。

 

靴は適当に脱いでOKより、揃えるが美しいし

イスは出しっぱなしでもOKより、入れる方が美しい

 

「○○は〜というもの」

ってのは、理屈じゃない。

 

理屈じゃないからこそ

一度身についてしまったら、

取り替えるのは大変そうだし。

 

 

大人だって長年かけて染み付いた習慣は簡単に変えられない。

 

 

だからこそ、

屁理屈が言えてしまうくらいの知識がつく就学前に、

「怠けたい、面倒くさい」という我欲が出てくる就学前に、

躾きってしまうことが大切、というのは解せる。

 

 

うん、解せる!

やるわ!森先生!