先週末で今学期は終了。生徒のいない学校はひっそりと静かだ。同僚の教師たちも休暇でどこか他の町へ出かけているようだ。僕は自宅で黙々とパソコンに向かい、来年の授業準備。活動の集大成となる来年は、中学2年生一クラスに数学、そして三クラスの体育を受け持つことになった。

数学の授業数が大幅に減ったのは、来年6月で任期が終わることを考慮してなのか、あるいは今年の出来を見ての判断なのかは分からない。このタイミングで体育を教えることになるとは、思ってもみなかった。けれど、それが配属先の要求することならば、また気持ちを切り替えて、活動の構想を練っていきたい。

ソーラン節、大縄跳び、空手、フットボール…、それらを通して伝えられることはたくさんあるはずだ。何より、自分自身が身体を動かすことが大好きなので、単純に僕が感じる楽しさをそのまま生徒たちにも共有できればいいな、と考えている。

そんな構想を室内でずっと練っているのは、体育会系の僕にとってはしばしば窮屈らしい。気晴らしに外に出て散歩していたら、子どもたちのわめく声が、静かな校庭から聞こえてきた。自転車の乗り位置のことで兄弟げんかをしているようだ。一台に5人…って。現地語で何を言っているのかわからなかったけれど、その内容は想像したらなんとなく分かるような気がした。

青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-自転車兄弟
                自転車兄弟(Safe journey!)
以前、先輩隊員の家を訪問した際に、生まれて初めて鶏をしめたことがあった。身体を足で押さえ、首を一気にナイフで掻っ切る。首と身体が離れた後も、鶏の首も身体も暴れ動き、僕の手の中で少しの間、生きていた。命は目に見えなかったけれど、確かにあの時、「生」が「死」に変わっていく、移っていくのを、僕は自分の手を通して身体全体で感じていた。

あの時の気持ち、疲労感は体験した者にしか分からないだろう。そして、あのとき言った「いただきます。」は、人生で一番気持ちがこもっていたと、自信をもって断言できる。たとえば、コンビニで買ったおにぎりを食べるときに言う軽やかな「いただきます。」よりも、たとえば、大切な人に作ってもらったディナーを食べるときに二人で言う「いただきます。」よりも。

百回「命は大切です。」と言われるより、一回自分で鶏をしめたら、命の大切さが分かる。友人隊員が言っていた言葉に深く同意する。日本では、スーパーで既にパックされた状態で売られている動物たちのお肉。グラム表示される、命。安売りされる、命。…なんてことを言って、自分だけ非当事者ぶるつもりは更々ないけれど、ただ、せめて「ごはんは残さず食べましょう!」という心は、いつも持ち合わせていたいと、僕は思う。


僕の任地ルコンバの町は、山羊肉がおいしいことでちょっと有名だ。バスの運転手に「ルコンバ」と告げるより「山羊肉のとこ」と告げたほうが通じるくらいに。道路沿いに屋台みたいに炭火台を並べて、刺身くらいの大きさに切った山羊肉を男たちが焼いている。男たちとは毎日顔を合わせるので、顔見知りだ。毎日5ピース買って1ピースおまけしてくれる暗黙の了解みたいなやりとりが、僕には嬉しい。

そんなやりとりをする僕と男たちの傍らで、頭だけになった山羊がいつも置かれている。その虚ろな視線を思い出しながら、今日も僕は「いただきます。」と、背筋をのばして、手を合わせて、心を込めて。

青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-山羊の青空
                山羊の青空(何を思うぞ。)
ザンビアの伝統的な布であるチテンゲで、ずぼんを新調した。町の片隅で30年以上チテンゲ服の仕立てをしているというそのお母さんは、ミシンとチテンゲと笑顔の似合うとても温かい人だった。人の肌に直に触れ、人を包む衣服のあの優しさは、彼女のような製作者の愛情のこもった作業あってこそだと、僕には思えた。

できあがりを楽しみにして彼女の作業場へ行くと、「待っていたよ。ポケットを3つ作ったよ。」と、完成したずぼんを広げて見せてくれた。手にとってみると、本当だ、左右2つのポケットに加えて、お尻の部分にも3つ目のポケットをつけおいてくれた。注文するときにポケットをつけておいてと頼んだから、僕がポケット好きであることを見抜いたのかもしれない。うれしかった。

お代のK10,000(約200円)を払うと、僕はその場で(棚の影で隠れて)新しいズボンに着替えた。「似合っているよ!」と言われ、照れくさいのを隠して僕はポケットに手をつっ込んだ。僕の癖だ。「ありがとう!」と言って別れを告げると、僕は家路についた。

家に帰るまでの道で、町の人たちの視線が僕に集まるのを感じていた。黄色と赤と黒、僕にしてはちょっと派手だったかな。ザンビアの伝統着チテンゲをまとった僕は、逆に異国感を助長していたかもしれない。それでも、すれ違う生徒たちに「センセ!ナーイス!」と気持ちのいいお世辞に、僕は満更でもないのと、少しの照れに、またしてもポケットに手をつっ込んで、そそくさと家路を急いだ。あの優しい笑顔を思い出しながら。


青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-お母さん(ミシンが似合う。)
                お母さん(ミシンが似合う。)


※おかげ様で、本日200首達成しました!ザンビアに来て詠み始めて1年半、残り半年余りのの任期も、感謝の気持ちを忘れず、ザンビアで感じた心の揺れを、読者の皆様と共有できたらと思います。これからも、何卒よろしくお願いいたします。
夕方、マーケットで夕飯の食材を買って帰る途中、手をつないで歩く母子の姿を見かけた。若い母親の背中のチテンゲ(布)がこんもりと膨れ上がっていたので、「これ、赤ちゃん?」と声をかけると、「そうですよ。」と優しい声で答えた。そんな質問をしてしまうほど小さな命は、母親の背中でスヤスヤ眠っていた。

’歩いている’というより’歩んでいる’と表現したほうがしっくりするくらい、母子の歩調はゆっくりだった。母親は子と手をつないでいたので、子のぎこちないスピードを歩みを合わせていた。時折、子を見ながら、時折、道の先を見ながら一歩一歩・・・半歩半歩ずつだった。

「トゥカムナナ・マイロー!」と、現地語で「また明日!」と別れを告げると、「マイロー!」と母子も手を振ってくれた。僕が別の道へ歩き出した後も、母子はゆっくり、ゆっくり歩いていた。家路を急いでいる自分がなんだか恥ずかしくなって、一人でにんまりと自嘲していた。

幼児の一生懸命ないくつものはじめの一歩を見ていたら、自身の歩みを確かめたくなった。いつもよりわざとゆっくり歩いてみる。一歩、一歩、呼吸と歩調を合わせながら、地面を歩く。つなぐ相手はいないから、とりあえず手はポケットにつっこんで。

青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-二足歩行
                二足歩行(歩いて帰ろう。)
生徒の名前を呼ぶことは、生徒と接するときに心がけていることのひとつだ。授業で問題をあてるときに呼ぶのはもちろん、朝の校庭で「おはよう」の後に名前を付け加えるのも、小さな行為だけれど、とても意味のあることだと、僕は思っている。たとえ叱るときでも、名前を呼びながら叱るのを忘れないようにしている。それが僕なりの生徒に対する愛情表現のひとつだと思うから。

生徒にとって学校は最も近しい社会的なコミュニティだ。もっと砕けて言えば、学校は子どもの「居場所」。教師や友達などと共に、勉強やその他の活動を通していろいろなことを学ばせることでのできる場所。理想を言えば、毎日学校に来るのはもちろん、勉学に励んでほしい。もっと欲を言えば良い成績をとってほしい。あわよくば、その科目が僕の担当する数学であってほしい、とも。

けれど、実際そう簡単にはいかない。クラスの約2割弱の生徒は学校を休みがちだ。家の手伝いのため、遠方のため、雨で道が通れない…など理由は様々。生徒に「学校と家の手伝いのどっちが大事?」と聞くと、「学校。教育は良い将来を与えてくれるから。」と、一応生徒自身もそのことは理解している。だから、休みがちな生徒に「何故学校に来ないんだ?」という質問はしないようにしている。

休みがちな生徒が登校してくれたときは、素直に嬉しいと思う。少しやるせなさは感じるけれど「来てくれてありがとう」と声を掛けるのは、君の居場所はここにもあるんだよという想いを込めてのことだ。久しぶりの登校で忘れてしまったその生徒の名前を、こっそり他の生徒に教えてもらって、その名前を呼ぶ。どこか気恥ずかしさを感じたのは、呼んだ側の僕だけではなかったかもしれない。

君の名前を呼ぶことにちょっとこだわってみた3学期もあと2週間で終わり。授業はなく、毎日テスト三昧の君の名前をめっきり呼ばなくなって今は寂しい。テスト後の教室でひとり感傷にひたっていると、机に彫られた「君の名前」。学校の備品に傷をつけるなんてまったく…と呆れるの半分、「○○参上!」という万国共通の力強いその証に、嬉しさも半分伴って、僕は心地よい苦笑いを浮かべた。

青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-I was here!
                I was here !(我参上!)
ザンビアで体罰は一般的に行われている。僕の任地で採用されている方法は、その辺に落ちている枝を指揮棒くらいの長さに折って、生徒の手のひらを思い切り叩く、というのが主流だ。遅刻が頻発したり、国歌をちゃんと歌わなかったりしたときなどに、この体罰は実施される。

叩く先生の役職・性別・性格などによって、叩かれた生徒の反応は異なる。校長や教頭、厳格な先生に叩かれるときは、確かに棒の勢いも違うこともあってか、真面目に罰を受けているように痛がる。けれど、優しい女の先生や穏やかな先生のときは、むしろ皆でそれを楽しむように痛がっている。「Sir・・叩く場所がちがうよ~。」とか、「オレのほうが痛かったぜ~へへへ。」と、ひじで友達同士をつつき合うみたいに。

青年海外協力隊は現地訓練において、体罰をしないよう言及される。僕自身、殴ったり蹴ったりの体罰をしたことはない。このザンビア流の棒で叩く体罰もだ。けれど、そういう衝動に駆られるときは多々ある。「こりゃ、あとはもう、ぶん殴って分からせるしかないんじゃないか?」と、生徒と対峙することは、日常茶飯事だ。

体罰は教育か。日本の教育現場にずっとあったであろう問い。僕自身が小中学生の頃は、普通に先生に殴られたものだ。理不尽なものもあったけれど、まあ殴られても仕方ないか、と思うものもある。今の僕に答えは出せない。「体罰反対!」と宣言することもできなければ、その逆も言えない。逃げている?探している?そうやって見て見ぬふりをしている僕よりは、何らかの信念を持って体罰をしているザンビアの先生のほうが、教育者としては正解なのかもしれない。

今日もG9(中学3年)の50人ほどの生徒たちが、国家試験に必要な証明書作成のための写真撮影に来なかったとして、校長先生に棒で順々に手のひらを叩かれていた。びゅんと細い棒が空間を切る音、ペチッとそれが手のひらを捉える音、生徒の「イッ!」という悲鳴を堪える悲鳴の声、50人連続で叩く難儀な動作にたまらず校長が切らす息の音。目を逸らしてもなお聞こえるそれらの音に、一体僕は何を感じていたんだろう。何を感じていたくなかったんだろう。


青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-体罰

              体罰(そこには愛があらんことを。)
初雨が降って以降、まだ雨の降らないザンビアはうだるように暑い。生徒にとっても僕にとっても、授業に集中するのが大変な時期だ。2コマ(40分×2コマ)連続で授業するときには、途中リフレッシュも兼ねて、九九リレーなどのアクティヴィティをいれたりして、生徒の気持ちを維持するなどの工夫が必要だ。相変わらず、中学生でも九九がままならない生徒たちと過ごす授業も、気がつけば片手で数えるほどの季節になった。



来週からG9(中学3年)の生徒たちは、国家卒業試験がはじまる。その結果で、高校の進学先を決めることになる。僕が赴任したときからすでに1年以上、彼らとは授業で関わってきたので、どうかベストを尽くせるよう、今だけは神様にお祈りしたい。最後の授業くらい優等生であってと願うけれど、まったく最後になってもまだ、また、同じようなことで彼らに振り回されっぱなしなのは、この際、喜ぶべきこととして受け止めることにしよう。



僕の活動任期2年のうち、おそらく今のG9の生徒たちが主に受け持った生徒たちになることと思われる。僕の教師としてのスタートを切らせてもらったのが、彼らだった。一年以上に渡り、数学の授業だけでなく、フットボール部の活動を通しても関わらせてもらった彼らに感謝したい。そして、卒業試験という一つの節目まで見させてもらえたことに対する学校へもまた、改めて感謝したい。



生徒だけでなく、僕自身もここでひとつ卒業するような心境・・・になれればいいのだけれど、目の回るような彼らと過ごすこの現状に、まだそういうわけにもいかないようだ。練習問題を与えると、ようやく教室が少し落ち着いた。校舎がやけに静かに感じたのは、雨季で頻発する停電のせいだ。電気がなくなって使えないサイレン(チャイム)の代わりに、終業を知らせる鐘の音が鳴る。「はい、そこまで~!」「センセ、まだ終わっていないよ~!」といういつもの声があがって、彼らと過ごす授業がまた一つ終わる。





青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-誰がために鐘は鳴る
 

(チャイム(誰がために鐘は鳴る。)



一回裏切るより、十回裏切られたほうがまだマシだ。小学校の頃、友達に嘘をついた日のように、心がかゆい。先生に叱られた帰り道は、いつもしゅんとなって石ころを蹴飛ばした。先生に本気で叱られたのは、いつの日が最後だったろう。

今日の僕は本当に最低だった。G7の試験監督のスケジュールを確認し忘れたために遅刻して、校長先生に叱られた。この校長先生は先月に代わったばかりの方で、いろんな意味で干渉主義の方だなと思う。朝礼で生徒の列の並び方から、教師陣に対する出欠勤管理にいたるまでこだわる。最近一緒に活動させていただいて、ザンビアの教育者として見習う点が多いと思っていた矢先だった。

「どうして遅刻したんだ?」と校長に聞かれ、「Sorry sir. スケジュールをチェックし忘れていました。」と謝る僕の姿は、普段の僕と生徒の光景に同じで、ただただ自分が惨めで不甲斐なかった。そのとき、久々に誰かに本気で叱られたことに動揺して、開き直りすらして、今まで散々裏切られたザンビアンカルチャーに対する反発する気持ちさえ抱いて、素直に謝罪できていない自分に対して、悔しい気持ちを抱いた。

十数年ぶりに先生に叱られた十月。生徒の態度に気力を失い、指導という名目のもと本当はあきらめただけの授業放棄、の十月。いろいろあった十月も終わり、季節も本格的に雨季に入った。道端には半年振りの雨でできた水たまりがあった。雨のち晴れ、へこんでばかりはいられない。水たまり目掛けて助走、我は今だけ風になろうか。

青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-新しい季節
               あたらしい季節(はじまりはいつも雨)
先生の言葉って、時限バクダンみたいだ。叱られたその時には分からなくても、次の日、もしくは1年後、10年後になって、心に響くことがある。生徒に想いを伝えるために、熱く語語ったり、冷静に諭したり、時には怒鳴ったり、ほんの時々無視したり、極まれに胸倉をつかんだり。それでも駄目なときの最終兵器、言葉という時限バクダンを、先生は生徒の心に埋めるのかもしれない。

G7(小学6年)の国家進学試験が始まり、担当しているG8、9(中1,2)の授業は午後からという時間割になった。午後は高校生も受け入れているため、教室数の関係でG8,9は2クラスを合同で教えなければならない。教室に60人の中学生が集まって授業をするのは、骨の折れることだ。彼らに1年以上教え、何が伝えられたのだろう。自分は異国からやってきただけの裸の王様なんじゃないかと、ふと思うときがある。

それこそ腰の骨が折れたようにヘタリ込むくらい、なんにも伝わっていないじゃんと思うこともある。数学の知識だけでなく、時間を守ること、約束を守ること、他人を思いやること、全てにおいて。「遅刻しておいて笑うな!」「何でノートを開かないの?」「どうして板書しないの?」「時間は大切だよ。」「静かにしなさい。」「何回同じこと言えば分かるの?」「お願いだから、思いやりのある大人になってくださいね。」

僕が学生の頃、よく叱られたものだ。当時は理解・反省するどころか、理不尽にすら思えたその言葉に反発ばかりしていた。でも、やはり先生の言うとおりだったのだ。きっと年頃の僕は、気づかぬふりをしていただけなのだ。今こうして、十数年後に教師をさせてもらって、やはり何をやっても駄目なとき、同じ言葉を生徒の心に埋め込むように、最後の最後は伝えるようにしている。いつの日かそれが届くようにと、願いをいっぱい’時限言葉’に込めて。


青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-愛の時限バクダン
              百二十の瞳(時限言葉を心に埋める。)
一生懸命に生きられた日の夕日は美しく見える。何かもやもやした日の夕日には感動を覚えない。それは日本の夕日でも、ザンビアの夕日でも変わらない。結局、夕日が美しいのではなくて、それを見る人の心の有り様を映すのだと、僕は思う。

例えば、曲がっているネクタイにも気づかないくらいに忙しい一日の終わりに、ふぅというため息をつきながら眺める帰り道の夕日は、やっぱり綺麗だ。逆に、何にもしなくてよい週末の休みの日に眺める夕日には、やっぱり感動は薄いし、むしろそういう日には、自分から進んで夕日を見ようとはしない。

夕日はいつだって一日の終わりに、ただそこにいてくれる。たとえ雨の日であっても、雨の日仕様の暮れていく紺色に似た空が、そこにはある。毎日、同じような顔をしていながら、昨日とは少し違う、今日の空模様というものがある気がする。世界中の人々の様々な心模様を、空という鏡は映し出して、今日色に染まっている気がする。

そう、きっと僕はロマンチスト。でも、それと同じくらいリアリスト。ロマンチストとして、目には見えない「生きている理由」という大きな探し物を、日常という旅の中で毎日するのだ。そんなもの見つかりっこないと知りながら。だから、せめて、世界中の人々が同時に目撃できるほど、紛れもなく確かに存在するあの大きくて眩しい夕日を眺めて、無言でうなずくことができるように、今日という日をただ一生懸命に生きたい。目に見えて形あるものを信じるリアリストとして。なあんてな。でも、そう思う。

青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-夕日裁判
             夕日裁判(原告、被告、裁判長、全員ぼく。)