ザンビアで体罰は一般的に行われている。僕の任地で採用されている方法は、その辺に落ちている枝を指揮棒くらいの長さに折って、生徒の手のひらを思い切り叩く、というのが主流だ。遅刻が頻発したり、国歌をちゃんと歌わなかったりしたときなどに、この体罰は実施される。

叩く先生の役職・性別・性格などによって、叩かれた生徒の反応は異なる。校長や教頭、厳格な先生に叩かれるときは、確かに棒の勢いも違うこともあってか、真面目に罰を受けているように痛がる。けれど、優しい女の先生や穏やかな先生のときは、むしろ皆でそれを楽しむように痛がっている。「Sir・・叩く場所がちがうよ~。」とか、「オレのほうが痛かったぜ~へへへ。」と、ひじで友達同士をつつき合うみたいに。

青年海外協力隊は現地訓練において、体罰をしないよう言及される。僕自身、殴ったり蹴ったりの体罰をしたことはない。このザンビア流の棒で叩く体罰もだ。けれど、そういう衝動に駆られるときは多々ある。「こりゃ、あとはもう、ぶん殴って分からせるしかないんじゃないか?」と、生徒と対峙することは、日常茶飯事だ。

体罰は教育か。日本の教育現場にずっとあったであろう問い。僕自身が小中学生の頃は、普通に先生に殴られたものだ。理不尽なものもあったけれど、まあ殴られても仕方ないか、と思うものもある。今の僕に答えは出せない。「体罰反対!」と宣言することもできなければ、その逆も言えない。逃げている?探している?そうやって見て見ぬふりをしている僕よりは、何らかの信念を持って体罰をしているザンビアの先生のほうが、教育者としては正解なのかもしれない。

今日もG9(中学3年)の50人ほどの生徒たちが、国家試験に必要な証明書作成のための写真撮影に来なかったとして、校長先生に棒で順々に手のひらを叩かれていた。びゅんと細い棒が空間を切る音、ペチッとそれが手のひらを捉える音、生徒の「イッ!」という悲鳴を堪える悲鳴の声、50人連続で叩く難儀な動作にたまらず校長が切らす息の音。目を逸らしてもなお聞こえるそれらの音に、一体僕は何を感じていたんだろう。何を感じていたくなかったんだろう。


青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-体罰

              体罰(そこには愛があらんことを。)