先生の言葉って、時限バクダンみたいだ。叱られたその時には分からなくても、次の日、もしくは1年後、10年後になって、心に響くことがある。生徒に想いを伝えるために、熱く語語ったり、冷静に諭したり、時には怒鳴ったり、ほんの時々無視したり、極まれに胸倉をつかんだり。それでも駄目なときの最終兵器、言葉という時限バクダンを、先生は生徒の心に埋めるのかもしれない。

G7(小学6年)の国家進学試験が始まり、担当しているG8、9(中1,2)の授業は午後からという時間割になった。午後は高校生も受け入れているため、教室数の関係でG8,9は2クラスを合同で教えなければならない。教室に60人の中学生が集まって授業をするのは、骨の折れることだ。彼らに1年以上教え、何が伝えられたのだろう。自分は異国からやってきただけの裸の王様なんじゃないかと、ふと思うときがある。

それこそ腰の骨が折れたようにヘタリ込むくらい、なんにも伝わっていないじゃんと思うこともある。数学の知識だけでなく、時間を守ること、約束を守ること、他人を思いやること、全てにおいて。「遅刻しておいて笑うな!」「何でノートを開かないの?」「どうして板書しないの?」「時間は大切だよ。」「静かにしなさい。」「何回同じこと言えば分かるの?」「お願いだから、思いやりのある大人になってくださいね。」

僕が学生の頃、よく叱られたものだ。当時は理解・反省するどころか、理不尽にすら思えたその言葉に反発ばかりしていた。でも、やはり先生の言うとおりだったのだ。きっと年頃の僕は、気づかぬふりをしていただけなのだ。今こうして、十数年後に教師をさせてもらって、やはり何をやっても駄目なとき、同じ言葉を生徒の心に埋め込むように、最後の最後は伝えるようにしている。いつの日かそれが届くようにと、願いをいっぱい’時限言葉’に込めて。


青年海外協力隊(理数科教師)の一生一句~アフリカから一句、詠ませていただきます。~-愛の時限バクダン
              百二十の瞳(時限言葉を心に埋める。)