●文学と強い意思は人を変える
読み始めて数ページまでは文学かぶれによる文学もどき的な小説だと思っていた。(著者の兼近大樹さんが文学を深くまで掘って愛していることは知っていたが、この小説の出だしに関してはそう思った。)語彙も文体の輪郭も文学が好きな人が使いがちで安易なものに思えた。つまり、文学的に程度の浅いものだと僕は偉そうにも感じていた。
しかし、「おれ」という一人称を使い始めるあたりから、物語と文体はドライブし始める。そして、こんなにも明け透けに過去の"ワル"だった日常を描いたことに驚いた。しかし、本当は主人公には少年漫画や青年漫画のヒーローに憧れる純粋な心があり、また類稀な正義感の持ち主で、その正義が他の人間からはズレているために周囲から"ワル"扱いされることも描写されている。
この作品は石山という男性が主人公であり、フィクションという体(てい)だが、筆者の兼近の半生がいくぶんかは反映されているに違いない。だとしたら、自分が傷つけた者たちへの償いのつもりでも書いているのだろう。
週刊文春に"ワル"な過去をスクープされた兼近さんだが、週刊文春を発行している文藝春秋社がこの小説を発行しているのは何という皮肉だろう。自分の立場をおびやかした出版社のことをあまり恨んでないのだろう。ルサンチマン(≒恨み、嫉み)からは程遠い、サッパリした性格の兼近さんゆえに出来る技かもしれない。
主人公が又吉直樹の書き物にハマる、この小説の終盤以降が指し示すように、文学が人を変えることは事実だ。密度とリアリティをもって紡がれた物語によって自分には無い体験ができ、新しい世界が開けていく感覚は文学的な体験だ。
僕の敬愛する小説家であり文学者の高橋源一郎さんがこんなことを言っていた。
彼によると、「文学」とは「複雑なものを複雑なままで理解しようとする試み」であり、「最初から最後まで、その対象と共感しようとする試み」であるらしい。
(高橋源一郎『丘の上のバカ』朝日新聞出版, 2016.11, p.110.)
誰かの内面を深く知り、自分と違うところ、同じところを見つけるのも文学的な行為だ。また、同じ境遇にいる人へのシンパシー、違う境遇にいる人へのエンパシー、共感の二類型であるどちらもが世の中の潤滑油であり、文学が与えてくれるものだ。各々が生きている経済的・文化的背景は違うことを兼近さんは"階層"という言葉を用いていたが、階層が違うものへのエンパシーの感覚を育てることこそ、この小説の文学的なゴールだろう。そして、常識が違う世界と"普通"を横断し、階層をまたぐ複雑な知性がこの作品にはある。
主人公の石山は危険でグレーな夜の世界を抜け出し、むき出しの太陽にさんさんと照らされながら真人間の世界で生きることを選択する。そして、のちに芸人として活躍するまで、鋼の強い意思で頑張り抜く。その際には、お笑いであり、小説家でもある又吉さんが良いロールモデルになったのだろう。また、兼近さん自身も、犯罪者という烙印を押されていても優しく強く生きるというロールモデルになるに違いない。(ネット上でこの本の感想を探すと、石山と自分を重ねているものが多い。)
作中に出てきたRADWIMPSの曲である「なんちって」でボーカルの野田洋次郎さんは「バカ!ドジ!マヌケ!死ね!オタンコナス!今の言葉のどこにお前はいる?」と歌っているが、野田さんは初期当時の熱さを持ちつつ、現在は知的に成熟している。兼近さんも熱く心を燃やしつつ、成熟の過程にあるのだろう。(このレビューの筆者であるよーよーはいつでもビギナーで成長過程です…。)
そして、鈴代さんとの恋バナは一抹の切なさがあった…。ここでは詳しくは語らないので、ぜひ小説を手に持って読んでほしい。
Score 8.0/10.0
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