音楽に求めるもの(洋楽ロック三銃士,神かま,うみのて,ビリー等) | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。

現在の洋楽ロックで活躍が目立っているロックバンドであるTame Impala,The 1975,Vampire Weekend。音楽としては申し分ないのだが(オシャレなBGMとして心地よく聴ける)、ロックミュージックを更新する存在として持て囃されていることには違和感がある。

Tame ImpalaとThe 1975に関しては、他の大衆ポップスと変わらないエレクトロ・ポップを聴くぐらいならマッドチェスターを聴くし、オシャレなだけのインディー・ポップを聴くぐらいなら、小沢健二やスピッツを聴くよ。だけど、The 1975の"I Always Wanna Die"のサビの筆舌に尽くしがたい気持ち良さ、これはイイ。今の洋楽に欠けているのは、歌メロの即効性だよ。





Vampire Weekendもオシャレなだけのインディーロックに思える。アフロリズムを取り入れたVampire Weekendは、同じくアフロリズムを取り入れたTalking Headsと比べれば小さくまとまっている。





僕が音楽に求めるのは、音楽(リズム・メロディ・ハーモニーのうち、特にメロディを重視する)それ自体に加えて、実存の生々しさであり、リアリティであり、文学だ。それは、邦楽でも洋楽でも変わらない。上記の洋楽ロックのバンドには、それらが感じられなかったのだ。

例えば、うみのての笹口さんがツイートしていた、ジョイ・ディヴィジョンのこの曲に対して、生々しさもリアリティも文学も感じる。僕は英語詞は聞き取れないけれども、音からそれらを感じるんだ。笹口さんもNEW OLYMPIXの「力がほしい」で歌っているように、ロックはオシャレじゃない。ロックとは、オシャレから離れた、もっと人間の根源に迫る何かだ。


Joy Division - New Dawn Fades

ところで、次のようにツイートしている方がいた。

--引用始め--
「それにしても「ゲスの極み乙女。」とか「打首獄門同好会」なんて名前、自分たちでセンスがあると思いこんで付けているのだろうかと首を傾けてしまいます。はっきり言ってグロテスクで下品なだけだと思います。彼らはそういう悪目立ちでしか「ロック魂」を発揮出来ないのでしょうか。」
--引用終わり--


グロテスクで下品なのもロックですよ。ロックはグロテスクも下品も作品に昇華することができます。そういった人間のネガティブな感情も表現できるからこそ、ロックは面白いのです。そして、だからこそ、大衆ポップスにはないリアリティがあるのです。ゲス極も打首も、ネーミングセンスあると思います。

だからこそ、最近の洋楽では、ビリー・アイリッシュを推すし、最近の邦楽では、神聖かまってちゃんとうみのてを推すのです。彼らには、生々しさもリアリティも文学も感じる。感情の機微の生々しさがあるがゆえのリアリティ、現実を暴くリアリティがあるがゆえの文学。

ビリー・アイリッシュの音楽には、感情の生々しさがある。繊細であり、暴力的にも感じられる曲に、世界中のティーンが共鳴している。低音が強調された、今までに聴いたことのない音楽。僕は初めて神聖かまってちゃんを聴いた時に近い衝撃を受けた。


ビリー・アイリッシュ「bury a friend」

神聖かまってちゃんはいつも聴いているけれども、先日久しぶりに『みんな死ね』を聴いて、やっぱりいいなと思った。ロマンチシズムと絶望が交錯し、今の彼らよりも「生」が急迫しているこの感じ。ジャンクな演奏だからこそ、伝わる熱さがある。「自分らしく」や「たけだ君っ」は僕のテーマソングだ。


神聖かまってちゃん「自分らしく」(の子のデモ音源)

うみのてヤングチームの演奏も、第1期うみのてに劣らず素晴らしい。特徴的なドラムパターンから始まり、幽玄に鳴り響くギターの高音が続く恍惚。レインボーなギターの美しさと叙情が、焼け野原のトーキョーのその先を描く。


うみのて - RAINBOW TOKYO 2019.5.2

音楽はリアルであることが僕にとって重要だ。ビリー・アイリッシュは悪意や狂気と隣り合わせの愛を描くことによってリアルを獲得しているし、神聖かまってちゃんも、生と死の両極に引き裂かれた生々しい傷跡を見せつけることでリアルを獲得している。そして、うみのての音楽は、SF的な光景と現代事情とリアルが混沌として共存する、オンリーワンで摩訶不思議な音楽だ。僕はますます彼らにハマっていくのです。