【日常と音楽のエッセイ】うみのてと神聖かまってちゃんに共通するもの | とかげ日記

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【日記+音楽レビューブログ】音楽と静寂、日常と非日常、ロックとロール。王道とオルタナティブを結ぶ線を模索する音楽紀行。

音楽の感想を書いた時、ポエマーwwと笑わないでほしい。詩性の発露は人間にだけ許される贅沢であり、特権だ。詩性がなければ、世界は目に見えるままであり、耳に聴こえるままだ。目に見えないものを見ようとするには、詩性が必要なんだよ。

僕は統合失調症による幻覚で、普通の人の目に見えないものを見た。今は統合失調症は落ち着き、抑うつなどの症状が出る陰性症状のみとなっているが、急性期の時は本当に大変で、救急車に運ばれた。僕がこうして生きていられるのも、家族のサポートがあったからだ。

今も統合失調症の認知機能障害のため、記憶力があまりない。それに加え、一昨年の入院の際に行った電気ショック治療の結果、電気ショック以前の記憶がほぼ無い。大切な妻との思い出も、今は写真で見るしかなくなっている。あなたとの記憶を失いたくないよ。僕は泣く。

Mr.Childrenの「Any」には、窮する心を何度救われたか分からない。イントロの凛としたピアノリフが僕を真人間にさせる。今月には新しい赤ちゃんも産まれるし、もっと元気でいたい。幻覚ではなく、詩性によって、目に見えないものを見続けていたい。

僕は眼に見えないものを見ようとし、耳に聞こえないものを聴こうとする魔法使いだ。30歳まで童貞だったしね。童貞は自分のことを卑下しなくていい。女性へのアタックが報われなかったことが続いただけ。告白してフラれることを恐れていてはいけない。アタックあるのみ。

見えないものが見えるのなら、僕は曲に演奏者の魂を見たいのだ。

ところで、Awesome City Clubの2015年作品を聴いていたけど、彼らシティポップのバンド勢のほとんどには、言いたいことがない気がするね。流れるようなオシャレな時間こそが全て。それには、メッセージ性は邪魔になる。BGMとして流して気持ち良く聴ける。

僕の好きなうみのてと神聖かまってちゃんには自分がある。歌に笹口さんやの子自身が映り込んでいる。立ち止まらざるを得ないメッセージや流し聴きできない切実さがある。

僕が彼らを好きな理由は、まさにそこにある。美の中に醜があることを、醜の中に美があることを二元論に陥らずに表現できる稀有なアーティストだから、人間のありのままが歌の中に映るのだ。誰にだってネガティブな気持ちはある。彼らは、ポジティブな気持ちだけではなく、ネガティブな気持ちを曲に昇華することができる。


考えて生きてくような価値なんてどこにあるんだと僕は思うのです
放課後から続く蛙道、どーでもいいやとほざきつつ
どこまでもどこまでも生きたいと
願っているのかよ
殺してやると呟いて
頭を下げて謝った
僕はいつまでもそんな糞ゲロ野郎でさ
(神聖かまってちゃん「ぺんてる」)



俺は今日 人を殺したよ
頭の中で 人をぶっ殺したよ
誰でもやってることだろ
あんただってやったことあるだろ
本当に死ぬなんて
思わなかっただろ
マジで死ぬなんて
思いもしなかったろ
めでたいな 願いが叶ったよ
お前が望んだことだろ
笑えよ
笑えよ
笑えよ
笑えよ
光のように
風のように
波のように
海のように
(うみのて「Words Kill People (COTODAMA THE KILLER)」)




神聖かまってちゃんとうみのては、たけうちんぐさん(竹内道宏さん)にライブ映像を撮影してもらっていることでも共通している。お互いに意識することはあるのかな。

この二バンドは、最近の邦楽ロックの中で芸術を実践している類稀なバンドだと思う。の子と笹口さんという、一人の裸の人間をさらけ出している。その言葉はユーモアや毒や虚飾にまみれるが、その魂は虚飾がなく誠実な一人の人間のものとしてそこにある。もちろん、曲の主人公と作者のことは切り離して考えなければいけないが、の子と笹口さんの曲には、日記のように彼ら自身が映り込んでいるのだ。一人称の物語に自身の気持ちを仮託する神聖かまってちゃん、映画のような光景に自身の心象を映し出すうみのて。物や時間に魂が宿ることを芸術だとするのなら、神聖かまってちゃんとうみのての作る曲は紛れもない芸術だ。

僕の詩性は彼らの詩性とシンクロする。彼らが曲で描いた光景が僕のまぶたの裏にも映っている。彼らに出会ってから、就寝中にの子と笹口さんの夢をよく見るんだ。音楽性は異なり、ポップ寄りの神聖かまってちゃんとオルタナティブ寄りのうみのてだが、エピゴーネンの多い邦楽ロック界において、芸術を実践している数少ないバンドだと言ってよいと思う。