今、沖縄でこの記事書いています。
沖縄県の北部は国頭村
かいぎんフィールド国頭で
FC東京が合宿をしており
私もリモートワーク
仕事の仲間を連れて沖縄に
訪れていました。
偶然なのか必然なのか
熱が冷めないうちに
彼の小学生時代にサッカー指導者として携わらせていただいた
FC東京のサッカー日本代表
バングーナガンデ佳史扶に
再会した時の話を
記しておこうと思います。
(カシーフと呼んでいるので
このあとはカシーフと書こうと思います)
会えた当日は、約束をしていたわけではなかったのですが
私はリモートワークで国頭のオクマリゾートへ。
カシーフは当日、別メニューで
ちょうどホテルに滞在していて
取材などで
普段はあまり立ち入らないロビーエリアに来ていたのでした。
リモートワークをしようとして
行きつけのカフェが冬季休業で
フロントに他のカフェがないか聞いてみようと思っていたところ
宿舎に帰る途中の
カシーフらしき後ろ姿を発見。
気がつくかなと思って
「カシーフっ!」
と、呼んでみたら
こちらを振り返り
すぐに気がついてくれた。
えっ?なんでここにいるの?
と言う感覚であったであろう。
でも、すぐに気がついてくれた。
彼は23歳になったので
12歳まで接したところから数えると
11年ぶりの再会。
嬉しそうに近づいてきてくれて
ガッチリと握手。
昔から練習の前には握手をして
よろしくお願いしますと挨拶をしていたけど
さらに大人になって逞しくなったカシーフの成長を感じた。
日本代表にも選出されて
FC東京でも試合に出場して頑張っている様子を聞いて
笑顔を見て、嬉しい気持ちになった。
カシーフは今シーズン
怪我をしていて長期離脱。
ちょうどこの日は
身体のケアをして
グラウンドへは行かず
午後はオフになっていたという偶然の引き寄せ。
カシーフのほうから
「この後、ケアをしてから
時間があります!」
と声をかけてくれた。
私もリモートワークをした後に
時間があったので
また連絡を取り合って会うことに。
ということで
感動の再会をして
久々の再会の時間を
過ごせることになりました。
彼との出会いを遡ると
私がサッカーの指導者として
活動させていただいていた頃。
埼玉県川口市の
前川少年サッカークラブで
小学校4年生からサッカーを始め
千島広監督の元
人としての礼儀、
技術と判断、
楽しいサッカーを表現することを学び
教わりました。
本当に感謝しています。
当時は、Jリーグが開幕したばかり。
兄が野球をしていてある日骨折をして
サッカーに転向したこともあり
自然とサッカーを始めることになりました。
自分で考えて自分の行動に責任を持ち
自由度を持って自分を鍛錬することができるサッカーは
僕の性に合っていて
サッカーを始めてからは
ずっとボールを持ち歩いて
暗くなるまで一人でもボールを蹴って帰ってくるような
少年時代でした。
1994年アメリカW杯を見て
マラドーナ、ロベルトバッジョ、ロマーリオ
ブラジルは
ロベルトカルロス、ドゥンガ、サンパイオ、
レオナルド、カフー。
マルディーニ。
ハジ、バルデラマ。
ブラジル、イタリア、アルゼンチン
ナイジェリア、ルーマニア
世界的なスター選手のプレーに憧れ
世界で活躍するサッカー選手になると
小学校の卒業文集では書きました。
小学校低学年からサッカーを始めた選手たちに混じって始めたので
上手な選手はフォワードやミッドフィルダーに。
気遣いや真面目な性格の僕は
サイドバックのポジションで
試合に出してもらえるようになりました。
さらに、右利きではありましたが
左のサイドバックに置いてもらったことが
この後指導者になり、
FC東京へ入団
日本代表へ選出される現在のカシーフに
影響を与えることになったは定かではないが
運命的なものを感じています。
サイドバックは試合をコントロールできるし
攻めもできるし
真面目な日本人が世界的に活躍できるポジション。
カシーフとの思い出をたくさん話をしたいが
まずは自分がなぜサッカーの指導者を志し
現在の活動をしているかについても
まとめようと思います。
サッカーJリーグが開幕
小学校4年生でサッカーを始め
1994年アメリカW杯で世界を見て
左サイドバックとして
ロベルトカルロス選手を見て憧れて育ちました。
守備もでき技術もあり
機転も効き攻撃的なプレースタイルは
私の性格にも合っていたようです。
現在、世界に出る
日本のサッカー選手のことを見てみると
やはり評価されているのは
サイドバックの選手が多い気もしている。
カシーフの先輩である
長友佑都選手。
内田篤人選手。
酒井宏樹選手
酒井高徳選手。
菅原由勢選手。
気遣いができる。
チームのために上下動できる。
真面目な気質。
ゲームをコントロールできる知性がある。
技術があり守備もできる。
的確なポジショニングで
フォアザチームで振る舞うことができる。
こんなところから
日本人の気質が高く評価されると感じている。
玄人目にしかわからない
誰も見ていないような上下動を繰り返し
チャンスと見れば
思い切りよくオーバーラップして得点を奪う。
FC東京での
カシーフの左足一線のゴールを見た時に
感動をしたことを覚えています。
右サイド遠いところで味方がボールを保持
一見、関係ないような左サイド奥から
走り始めスピードアップして
ボールを呼び込み左足を振り抜いた。
このゴールが
彼の性格と真面目な気質を物語っていました。
世界で活躍する選手になると夢抱き
私は中学校で怪我をして
選手としては一度断念してしまいました。
のちに教え子となるカシーフが
世界を視野に入れて活躍している様子が
自分と重なり、深い縁を感じています。
私はといえば順風満帆ではなく
怪我も多かった。
股関節に痛みがありプレーしては痛くなりの繰り返しで
結局中学でも高校でもサッカーをプレーすることができませんでした。
そんなところも
真面目で優しく
日本人よりも日本人的なカシーフを見ていて
大事なところで怪我をしてしまったり
グローインペインを持っている彼に
自分を重ねてしまいます。
中高生の一番エネルギーが高い時代、
私は脱毛症になってしまったり
生きているのがやっとくらい
精神的に落ち込み悔しい時を過ごしました。
やりたいことがやれなかったりすると
人はこんなにも元気がなくなってしまったり
あらゆる負のループが併発してしまうことも
身をもって感じ、貴重な体験をしたと今では思っています。
誰か身近に相談できる人がいたならば
人生が変わっただろうなと思い
サッカーの指導者として活動する夢を抱き始め
お世話になった前川少年サッカークラブを
たびたび訪れるようになり、
いつしか毎週の練習に混ぜてもらっていました。
変わらなく接してくださり
快く環境に混ぜていただいた千島広監督に
本当に感謝しています。
サッカーの指導者になりたいという気持ちも理解していただいて
やがて、小学低学年の練習を毎週担当させてもらえることになり
その子達がかわいくてかわいくて
しょうがなかった。
もはや
可愛いを通り越して
愛おしいと言う感情にすらなりました。
こんなに子どもたちのこと
好きだったんだと言う自分にも
気がつく体験でした。
毎週グラウンドに行って
子どもたちに会うのが楽しみで
週末を待ちきれなかったことを
今でも思い出します。
そのうち、練習後に
親御さんのお母さんの一人が
声をかけてくださり
「うちの子、毎週石塚コーチと会えるのを
本当に楽しみにしているんです!」
とお話をいただいて
子どもたちに必要とされている喜びと共に
その後の私の進む道を
後押ししてくれた気がしています。
可愛いを超えて
愛おしいという感情まで
抱くようになった
未来ある子どもたちのために
自分の命の時間を費やしたい。
今も自分の行動の指針になっているし
会社の理念にもなっています。
毎週練習をしたり
試合をしたり。
本当に楽しい時間を過ごしました。
また、小学校低学年を担当させていただいた
というところが
今となって本当に良かったと感じています。
なぜかといえば
高学年や中学生以降は
こうしようと言えば
そこそこできる。
しかし、
低学年は
楽しくなければ続けられない。
集中できない
飽きてしまう。
なので、
遊びの中で楽しく
学ぶべき要素が
自然と一つ一つのメニューの中に入るように
心がけ
鬼ごっこやごっこ遊びの中に
ボールを使う要素を取り入れたりしながら
ボールと相手を見ながら
相手に取られないように
プレーすることであったり
相手の逆を取り
かわすことであったりというシーンが
自然と生まれるよう
練習を工夫して行きました。
カシーフが
自分でも強みと口にするプレースタイルの
ボールを持った時のアイデアや
プレーのバリエーションの多さも
こういった楽しい遊びを取り入れたメニューの中から
培われていったものだとすれば
こんなに嬉しいことはありません。
当時のカシーフの憧れは
ベイルだったようです。
そして私はと言えば
部活はできなかった悔しい時期を過ごしましたが、
少年団をお手伝いさせていただきながら
高校を卒業し、
成長期も終わり
子どもたちと遊びながらサッカーをすることで
少しずつ足の痛みもなくなってきたことを感じていました。
進路を考えた頃、
このまま選手としての経験がないまま
指導者になることは
まだまだだと思い
やれるのであればやりたいと
大学サッカーをすることを決意。
大学サッカーと言えば
全国高校サッカー選手権で活躍した選手や
サッカー推薦によって入学した生徒が活躍する場所。
当然、
中学高校とプレーしていない人間を
受け入れてくれる学校もないであろうと
自主的に活動している大学を選び
入学することになりました。
当時埼玉県リーグ一部。
全国から上手い選手が集まっていて
全国大会に出場した強豪高校の選手も在籍していました。
ブランクがある私がプレーするには
適切な場所だったかもしれません。
技術と判断を大事にサッカーと出会わせてもらった少年団であったので
子どもの時に、リフティング、トラップなど
一人でできる練習はとことんやったし
技術的には上回っている
と言うことを感じました。
入部1年目からも試合に出してもらったし
2年目からは幹部を任せられ
少年サッカーの指導経験から
練習メニューの作成、実施。
言わば、選手兼コーチのような形で
サッカー部で活動させてもらいました。
当時の選手からも
楽しかったと感想をもらうことも多いし
それまでの
毎日決まったメニューをこなす
ルーティーンのような感じのメニューからは違い
毎回の試合やその時の課題問題から
メニューを導き出すところや
基礎的なところから技術を向上させて
選手一人一人の個性を尊重し
楽しく目的意識を持って運ぶメニューの構成
進行には
この経験をさせてもらったことも
貴重でした。
その後さらに、
もっと高い視座でサッカーを捉え
なぜ
その現象が起きるのかまで理解しながら指導する
という競技フットサルとの出会いも
偶然であり必然と言えます。
大学サッカーで3年間プレーし
さらにレベルの高い環境へ行きたいと考え始め
そうした時に
埼玉県川口市の実家から
自転車で通える距離で
今はさいたま市浦和で活動する
当時元浦和レッズの福永泰選手が
監督をされていたフットサルチームを見つけました。
それが
IMPERIO インペリオフットサルクラブ。
インターネットを検索すると
チームの記事やブログが掲載されていて
フットサル日本代表候補の庄司紘之選手が所属していたり、
Jリーグの下部組織出身の選手が多く所属し、
Fリーグ バルドラール浦安で活躍した鳥丸太作選手とも
このチームでお世話になりました。
この時は知らなかった
サッカーよりも
サッカーの仕組みの理解と
技術と一瞬の判断力が求められるかもしれない
競技フットサルの道へ
チャレンジさせていただく運びとなりました。
当然、
入団には練習生期間があり
他の練習生もいました。
新しい環境でわからないことも多くて
ゲームをすればそのスピードについていくのがやっと。
たくさんのフットサルの映像を見て研究したり
毎日毎日理解してはチャレンジしては
成功、失敗体験を繰り返して。
自分の責任で紅白戦に負け
罰走なんてこともあり
迷惑をかけたり悔しい思いをたくさんしたりして
鍛錬しました。
幸いにもここでも
小さい頃から技術を大切にしていたことで
プレーについていくことができた。
あとは、脳。
フットサルのことをたくさん知ることをすれば
プレーの幅を広げられるイメージはできていました。
毎週毎週、更なる成長ができる
自分の伸び代を感じながら
一層レベルの高い選手たちが所属する
ストレッチの効いた環境に身を置くことで
上達できることを感じていたし
本当に上手い選手がたくさんいたこと。
横浜Fマリノス
テクニックと言えば東京ヴェルディ
柏レイソル
FC東京
下部組織や
高校選手権の強豪校で活躍してきた選手たち
それぞれの選手に特徴があり
スピード、パワー、判断
人間性、ドリブル、テクニック
シュート。
特徴のある
プレースタイルの選手から
多くを学ぶことができた環境でした。
ある日の練習後
当時監督の福永泰さんから
「洋輔。やるか?」
と声をかけていただき
入団を認めていただくことができました。
これも貴重な経験でした。
サッカーとはまた違い
一瞬の判断と
フィールド上5人がいかに同じ絵を描きつつ
瞬時に表現、意思疎通をしながらプレーできるかが
競技フットサルの肝。
セオリーを知っているかいないかも
活躍できるかの肝でした。
毎回の練習では精一杯ついていき
フットサルを学び、
同時に
のちにサッカー指導者として活動をし、
なぜその現象が起きるかまで解釈しながら言語化し、
練習メニューやルールに落とし込むことができるようになった経験の
大きなもとであったことは
後に気がつくこととなりました。
おそらく
私と接した選手は
サッカー理解度が高かったと思うし
卒団しても他のチームで
フィールドの中で指示を出し
ゲームをコントロールできるようになっていたと思います。
時々インターネットのサッカー情報を見ると
携わらせていただいた選手たちが
高校サッカーや大学サッカーで活躍してくれていたりして
嬉しかった思い出があります。
そして
中学高校をプレーしていない私が
大学生になって改めてサッカーを再スタートし
その後も上手くなりたいと環境を求め
成長を感じることができたエピソードを
紹介したいと思います。
二十歳を超えてからでも
考えてプレーをすれば
上手くなれる。
ある時、
23歳以下の県選抜チームが組まれることとなり、
選考会に参加させていただきました。
すると、所属チームでは一番下っ端なはずで
試合にも出られるか出られないか。
勝負のかかった試合では
出場時間の短いの選手ではありましたが
年齢別の選抜チームでは
自分が試合をコントロールできるという感覚があり
埼玉県選抜メンバーに選出していただくことができ
その後開催された選抜全国大会へ出場することができました。
チームには
高校サッカーで活躍してきた
同じ県リーグで活躍する選手たちや
後にフットサル日本代表で活躍する
小曽戸允哉選手たちと一緒にプレーして
全国選抜大会で
ひと試合勝ち、次の試合も勝ちと
駒を進め、全国優勝。
中学高校と怪我で部活動をしていない
サッカーをプレーしていない選手が
二十歳を超えてからも諦めずに考えて行えば
上手くなれるということも、身をもって経験した
フットサルのプレー期間でした。
同時に、この経験が
サッカーの仕組みを理解し
細かいディテールまで理解して落とし込み
指導できる元となったことは前述のとおりです。
指導者として携わらせていただいた
カシーフたちの世代は
少年のフットサルの大会であるバーモントカップでも
好成績を残していました。
もちろん普段はサッカーがメインだったので
競技フットサルのようなゴリゴリのフットサルではなく
ミニサッカー的なスタイルでの試合で
個人の閃きによるプレーが多かったところではありましたが
フットサルのエッセンスを伝えることはできたと思うし
その体験をしたからこそ
サッカーのフィールドでも
何がどうなってどうなる
という興味関心を
子どもたちに抱かせるきっかけにすることができたかなと思っています。
感覚ももちろん
セオリーを知ってプレーすることで
ミスの多いサッカーというスポーツの中で
狙って有利な状況を生み出せたり
相手の心理や位置をコントロールしてボールを奪取したりと
精度高く判断ができる。
そして
フットサルの経験をして
サッカーの仕組みを深く理解したことで
子どもたちを上手くする
インテリジェンスを高く指導できる自信もついてきて
自信が上手くなっている実感もあるなかで
大学卒業の時期を迎えました。
そのまま
サッカーコーチ指導者の道へチャレンジするか
企業で勤めながら
できるところまで
選手生活を続けるかで悩みましたが
サッカーの指導者として活動をするためには
プレーの経験もできるところまではした方が良いと判断したし
何より自分自身が後悔のないように
したかったこともあり、
さらには
サッカーの指導者をするためには
この日本という国では
家族を養いながら
生活できている人は一握りな環境。
企業にサラリーマンとして勤めながら
週末をボランティアで
サッカーを教えている
お父さんコーチがほとんどだったりする
環境であることもわかっていました。
本気でサッカーの指導者をするには
自分の力で経済活動をし
子どもたちへの指導の時間
午後17時以降に活動できるように
手に職をつけ
15時までなどで終えられる仕事をして
収入を得たり
もしくは
オーナー業で
自分が現場に立たなくとも回るような仕組みを持ったり
事業を行う必要があると考えていて
いつかそういう圧倒的に強い状態で
未来ある子どもたちに向かえるようにしようと
目標設定をしました。
そしてその時に選んだ道が
中小企業の経営者の方と多く会えるでろう
IT系、OA機器系のコンサルティング要素のある
営業職を選び
社会人サッカーを続けながら
起業について準備をしようと
道を選択しました。
それが今のWEBマーケティング、
コンサルティング事業、営業指導
オーナー業としての店舗事業を経験したりして
リモートで時間場所を自由に
移動しながら活動できる形になり
企業から中小企業から
個人事業主、行政、学校から
講演やアドバイスを求めていただけるように
成長して来れたのは
こうした想いが裏側にあったからでした。
社会人になってからは
また一波乱あります。
現在では
起きる出来事は全て長期的な自分の目標設定のため
天が授けてくれる学び
という解釈ができるようになりましたが
悩み、解決しチャレンジし
の繰り返しであったことは
貴重な経験です。
一つのストーリーです。
サッカーの選手としての試合や活動は
土日がメインということもあり
土日が休みという法人営業を選択。
ここで面白いことに
所属した会社の方針により
携帯電話の販売職へ
一時出向することとなります。
AppleのiPhoneが世に出始めましたね。
この時ちょうど従事していました。
入社して最初の研修で
出向の事実が会社から知らされ
研修を終えて即退社した社員もいたし
当時の出来事は伝説的で
騒然としていた研修会場でした。
私はそのままその会社にいることを選択し
地元川口に配属され
販売職として従事することになります。
販売職と言えば
土日出勤がメイン。
土日、会社としては、
かきいれどきで
土日の両方を休みサッカー活動に当てる
ということが難しいという状況でした。
ものすごく葛藤しました。
やれることは全力で。
最初の月から成果を上げ
店舗の売り上げを330%向上。
当時同期で配属されていた社員の仲間にも応援してもらいながら
なんとか土日も交代で休みを取らせてもらって
現役生活を継続することができました。
ここでも
中学高校とプレーを断念した選手が
関東リーグで開幕スターティングメンバーに
名を連ねることができたということは
私にとって大きなことでした。
もちろん、出場したポジションは
左サイドバック。
これも偶然でしょうか。
もっともっと長期的に考え
自分の置かれた環境でどのように振る舞うか
自分が土日にサッカーに行ったとしても
店舗としてしっかりと売り上げを上げることができるように
接客、競争なども意識が生まれるように仕組みを整え
自分がいなくてもしっかりと成果が上がる仕組み経営についても考え
意識させてもらった経験ができた気がしています。
置かれた環境で120%考え行動することが
いずれ点と点で繋がることを体験しました。
スティーブ・ジョブズ氏の有名なプレゼンテーションの中の
connecting dots コネクティングドッツ
全ては意味があって起きている。
もしかしたら
昨シーズンのカシーフの怪我による離脱は
長期的な彼の描くサッカー人生
人生設計において
必要な出来事であったのだろうと
彼と語り合いました。
そんな経験を自分がしていたからこそ
そんな話にもなったし
カシーフは
その状況を自分で考え
アウターマッスルよりも
インナーマッスル、体感が大事と考え
ピラティスを始めたりして
すると
思い通りに体が動くようになってきたと言います。
きっと世界で活躍した長友佑都選手との出会いも
彼のビジョンから引き寄せている気がしますね。
せっかくなので
もも前ともも裏の筋肉のバランスの話
ハムストリングス筋のアクセルとブレーキのイメージの話を
意識しているかを聞いてみなって
アドバイスしました。
子どもの時から動きに癖があるのは
言ってみたら
自分でも理系していたみたいで。
あとは、地面からエネルギーをもらう
軸足の動きだったり
フォロースルーの足の運びだったりをトークした。
有益だったかどうかは
今後のカシーフの活躍に期待したい。
手本になる長友選手はカシーフよりも小柄であり
フィジカルもメンタルも
人一倍たくさんの工夫をしてきたはずです。
メンタルモンスターという書籍も有名ですし
日本代表に名を連ねているのは
若手選手の模範となれるからですよね。
ガーナ人のお父さんと
日本人のお母さんの間に生まれたカシーフは
当然、小学生時代から恵まれた体格をしていましたが
とは言っても目立って大柄ということでもなく
筋肉や骨格の作りが立派で
やはりアフリカの血を引いているな
という印象なくらい。
あとは、
バネがあるというか
今でもプレーしている時の写真でもわかりますが
キックした時のフォロースルーが
美しかったし
力の乗ったズドンとしたシュートも打っていたし
かつ、しなやかさもあって。
独特な面白い動きをするなという印象もありました。
あと、人が届かないようなボールも
ビヨーンを足を伸ばして突っついてゴール
みたいなシーンも記憶があります。
相手選手と並走していて
えっ?それ追いつくの?
届くの?
というようなプレーを目にすることもありました。
無理な動きにも見えたので
怪我もするかなとも思っていました。
ボールが来る前に勝負を決める
体の向きや視野の取り方
頭の使い方の話もしました。
カシーフの現在の身長は
178センチ。
プロサッカー選手としては大きい方でもなく
むしろ彼から言わせれば小さい方とのこと。
長友選手といえばそれ以上に小さく
しかし、世界の舞台でサイドバックとして
活躍しています。
着目すべきはフィジカル調整と
メンタル。
カシーフが自身で課題にしていたのも
フィジカル、特にケアの部分であり
メンタルでした。
チーム内にロールモデルとなる
尊敬できる選手がいることも
本当に意味があって起きている気がして
今この環境を
長期的な自分の目標達成のために活かすことが大切だねと
話をしました。
優しい性格のカシーフだから
どうしても周りのため人のためと動きすぎて
そうすると
自分としての軸が崩れたりして
事象として顕在化する
サッカー選手で言えば
無理をして怪我をしてしまうなど。
そういうことを
最近の私は
会社経営や人間関係で経験してきていて
自分のためにと一番に考え行動することが
人のためになる
こういう順番で
行動を選択して行くと
自分にとっても相手にとっても
良い結果になることを感じているという話をして
すごく学びになり
なんの出来事と重ねたのか
食い入るように話を聞いてくれました。
その視点はなかったと。
自分のエゴを貫くことで
相手のためになり周りのためになるという
現在のサッカー漫画で言う
ブルーロックを例にして
共通の話題で楽しみました。
現在の話題と過去の話題の時制を混ぜながら
話を進めている展開になっていることを
ここでお詫びします。
編集なしで思いのまま
この文章を綴っています。
私の話に戻ると、今度は社会人として
会社で働くと言う素養を身につけながら
今度は出向元の会社に戻るか
そのまま出向先の会社にいるかの選択の機会があり
私は元の法人営業の会社へ
帰任することになりました。
100人入社して99人が翌年辞めるという
激務の厳しいと言われている環境。
そこで結果を出すことができれば
サッカーの指導者として活動するに当たっても
起業をする選択をするに当たっても
家族や周囲からの理解や納得が得られるのではないかと
自分自身へのチャレンジでもありました。
当然
朝早くから夜遅くまで激務。
飛び込み営業
テレアポ営業
取引先営業を回って
帰社は18時定時過ぎ。
退社は22時で早い方で
終電間際で帰宅することも多くありました。
最寄り駅から自宅アパートまでの道のりで
疲れ過ぎて眠く駅のフェンスにもたれてしまい
カシャーンとぶつかりハッとする
とか
玄関先でそのまま倒れ込むように寝てしまい
疲れが取れないまま
また翌朝出勤なども経験しました。
若さゆえ
できたなという経験でした。
週末の試合のために
平日夜の練習に参加したり
自分で22時すぎに住まいの周りを走ったりして
体力を維持したり。
週末には体調が整わないので
理想のプレーができず
出場期間が減ってきたり
次の試合はいざ出場でき
試されると言うときに
体調を崩してしまったりと
不本意な現役生活でしたが
社会人として
サラリーマンとして
働きながらプレーするという
ある意味
プロ選手生活よりも厳しい環境を経験することも
未来ある子どもたちに
と言う思いを胸に秘めながら活動する私にとっては
必要な経験だったと
今では思える自分がいます。
20代後半になり
会社でも役職昇進
表彰をいただけるくらい活躍できるようになった時
改めて
サッカーの指導者として
活動したいと言う想いがあふれ
何をやっても一定の成果は出せると自信がついてきた頃
再び
恩師である
千島監督の元を訪ねました。
前川少年サッカークラブから
FCリベルタと名前を変え
クラブチームとして活動を広げており
近隣チームである
東本郷少年サッカークラブと合併し
今村コーチ
大沼コーチ
大先輩とともに
FCアビリスタとして活動を広げている中
活動させていただく
仲間にしていただくことができました。
そこで出会ったのが
カシーフでした。
サッカーを始めた頃は
病気がちだったとのお話を
カシーフのお母さんから聞いたことがあります。
4年生5年生と成長するうちに
たくましく楽しそうに
上の学年の試合にも呼ばれ
活躍するようになっていたカシーフ。
育成年代で大切な小学校高学年という時期を
一緒に過ごすことができました。
当時の思い出の話にもなり
彼のような選手といえば
やはりチームでは重宝される存在。
年代別のトレセン
選抜チームにも呼ばれていたし
そういったチームでは
周りが上手い選手だから
ある一定の役割を持ってプレーする
言わば駒のようになってしまうこともあり
プレーの幅が伸びなくなってしまいそうで
そこを理解して取り組めるのか
幅が狭い選手になってしまうのか
指導者の在り方や声かけ次第で
子どもの成長は制限されてしまう
懸念される事項ではあります。
しかし、置かれたポジションでの役割をこなすそれは
プレー年代が上がっていけば自然と身につくことであって
それも良いことではあるけど
今、小学生年代でしかできないこと。
チームのお山の大将として
前に行けば自分
後ろに行けば自分。
チームでは
一人分も二人分も三人分も
全部自分がプレーするくらいの気持ちで
小学生年代を過ごすことを
アドバイスしたことがありました。
おそらく他の環境では
スピードがあってキック力がある選手は
点が取れるし勝てる。
一番前に置かれて
あいつにボールを集めろ
というサッカーになる。
もちろん
そう言う中でストライカーとして育つ良さはあるけど
カシーフの性格や生き方などを
長期的に見た場合に
きっとだんだんポジションが下がるだろうな
と感じていて
その時チームでは真ん中に配置して
責任感を持ってプレーできるよう
エースナンバーである10番を与えることにしました。
縦横無尽にプレーすることを
小学生年代では意識しながら
カシーフの長期的未来を見据え
技術と判断、周りを気遣える責任感など彼の性格特徴を活かしながら
成長を見守ることにしました。
相手チームによって
その日のテーマによって
ポジションもフレキシブルに変えながら
自分たちで考えてポジションを組ませたり。
ある日のトレーニングマッチで
カシーフが左サイドバックで
プレーしたことがあり
躍動感を持ってフィールドを縦横無尽に
楽しそうにしている様子を見て
気遣いもあり優しい性格のカシーフは
きっとサイドバックで開花するのだろうな
などとふと思ったのは事実です。
私がサイドバックでプレーしていたこともあり
カシーフの優しい性格、気遣いある性格を見て
そんなふうに自分のことと重ねていました。
Jリーグデビューのニュース
日本代表でのプレー。
彼の出場していたポジションは
左サイドバックでした。
本人はあまり
当時のアドバイスは覚えていないみたいでしたが 笑
お母さんが
僕が言った言葉を
カシーフに伝えてくれていたみたいでした。
二人で笑いあいました。
石塚コーチのおかげだって言えし 笑
性格タイプがプレーにも如実に出る
サッカーの世界なので的中でした。
高学年の時には
目標設定シートなるものを
選手たちに書いてもらっていました。
当時カシーフは
用意したフォーマットではなく
自由に雑誌の切りはりをして
シートを提出してくれて
その中には
FC東京でプロになることと
日本代表として出場していること。
そして
マンチェスターシティでプレーしていることを
書いてくれていました。
言っていいかはわからないけど
書いてみました。笑
今でもその目標シートのスキャンデータ
持っています。
大谷翔平選手の目標設定みたいに
有名になる時が来たらカシーフに渡して公開?
でしょうか。楽しみです。
マンCでプレーする当時の夢は
まだ消えていないと
眼光鋭く良い面構えをして語ってくれたので
きっと彼は実現させるんだと思います。
そんな彼が
今季からチームから与えられた背番号は6番。
FC東京では6番をつけて活躍し
その後、海外へ活躍を広げた選手が多く
チームからの期待
カシーフの存在を大切にしてくれている
チームからの愛情。
そして
何がそうさせるのか
やはり
小学生の時から
しっかりと人と目を合わせ挨拶し
人間的にもしっかりとしていたカシーフの
謙虚で素直で愛される在り方が
周りをそうさせていると思います。
これはご両親の躾ももちろん
小学生年代でも長期的なその子の人生を大切にしていたので
しっかりと挨拶
報告連絡、自分で考えて修正し
努力することなど意識していて
私のことが怖かった思いはひとつもなかったと言っていたし
子どもだから当然少し気持ちが抜けることもあって
すると
みんな、どうなりたいの?
何になりたいの?
と言うような問いで
自然としっかり考えて行動する
空気作りを覚えていてくれて
感謝してくれました。
ガーナと日本のハーフで生まれ
見た目も他の子どもとは生まれつき違い
当然、そのことをコンプレックスに思ったり
いろいろな出来事があったと思うし
それを跳ね除けるように振る舞ったりしたこともあるだろうとも思い
当時の夢ノートにも書いてくれていた
お父さんの故郷であるガーナに
学校を作りたいという目標も
自分がサッカー選手として活躍して
影響力を持ち
アンテナとなる存在となることが
たくさんの人を助けることになるというイメージも持っていたようで
しっかりと将来見据えて
自分の存在を理解して振る舞う
カシーフの成長した姿に感動しました。
本当に優しいやつで
カシーフのことを悪くいう奴がいたら
そいつが絶対に悪いからな
それくらい俺は信頼しているという意味だよと
応援メッセージを伝えました。
まだ当時と変わらないあどけない表情をして
可愛く笑うところもあって
この子に携わらせていただくことができて
本当に幸せ者だなと感じたし
こうして時が経っても話ができることと
今後も尊敬してもらえるように
日々精進をし続けることをカシーフに伝え
定期的に会えるように頑張るね
と日本代表に選出された時のユニフォームに
石塚コーチへと
カシーフのサインをもらってその日はお別れしました。
本当に良い時間でした。
自分の将来を長期的にみて
経済の勉強であったり
ファイナンシャルプランの勉強であったり
語学であったり
社会的活動をしているアパレルブランドの支援だったり
SNSとの向き合い方にも
工夫をしていました。
流石の在り方です。
メディアやSNSとの向き合い方
工夫しているところもあって大丈夫だと思いましたが
少し悩んでいるようにも見えたので
私が伝えたことは
自分の価値観に沿った発信や受信をし
情報を取捨選択すること。
例えば彼の場合は
人の応援になることはWant。
子どもたちのためになる
家族のためになる
自分のためになる
人のためになる。
社会のためになる。
このようなことであれば
発信する。
受信をしだすとキリがないので
価値観に合ったアウトプットを徹底する。
受信が多くなれば時間を限りなく浪費するし
コントロールされる使い方になるので
それはしない。
当然
選手としての時間の使い方として
必要な思考だし
そんな話をしていたら
他のJリーガーのみんなにも
聞かせてあげたいと言ってくれた。
今、自分で考えてひとつひとつ行動している
一人の大人。
別れ際に記念写真を撮ってもらったホテルのスタッフさんに
丁寧に目を見てお礼をする姿にも
やっぱりそう言うところだよね
と共通言語がありました。
そう、色々な育成年代の選抜、代表チームに名を連ねて
お山の大将してきた選手の中で
偉そうにしてしまったり
調子に乗ってしまったり
勘違いしてしまう選手たちの姿も見てきたようで
小学生の頃から
人としての礼儀、作法を
大切に指導を受けてきたことに
後から気がついたようで
恵まれたと言ってくれた。
そう言うふうに言えるところが
また素晴らしいよって言ったけど。
体を気遣ってか
さんぴん茶を頼んでたから
先輩ヅラして奢ってやりました 笑
「今度は僕に奢らせてください
絶対です!」
ってどこまでも可愛く
真面目で誠実なカシーフの成長した姿に
一人の関わらせていただいた大人として
嬉しい気持ちになった1日でした。
このタイミングで
偶然の引き寄せ的な再会。
きっと何か意味があることだなと感じ
ブログに記しています。
彼の長期的な人生設計と
私の長期的な人生設計と
社会のお役に立ちたいと言う思いと
いつかまたシンクロし
シナジーが起きる時まで
しっかりと彼の活躍を見ながら
私も日々精進を続けたいと
改めて心に誓った1日でした。
本当に、
彼と出会わせてくれた
彼のご先祖さま。ご両親。
サッカークラブ関係者の方々。
私と出会っていただいた方々。
全ての方々への感謝の気持ちが溢れ
今後また恩返ししたい気持ちが
大きくなりました。
日々精進頑張ります!
サッカーは世界で一番プレーされているスポーツ
人と人を繋げるコミュニティ形成のツールとしての役割もあり
子ども達が自分で考え鍛錬し
自己成長するツールとしても
サッカーで何か恩返しする活動がしたいと言う思いもあり
ゲストハウス
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命の時間を費やすのであれば
社会性のあるところに
活動の幅を広げたいと
ビジョンを広げている
旅するシャチョー
石塚コーチの日記でした。
ぜひご感想やメッセージなども
いただけましたら幸いです。
今回のブログをお読みくださり
有難うございます。
世界中の人々の自己実現に寄与し
未来ある子どもたちにより良い社会環境を創造する
石塚洋輔
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