バングーナガンデ佳史扶(カシーフ)選手 サッカー日本代表選出! | 石塚洋輔のブログ

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この度、私が埼玉県を拠点に活動する

FCアビリスタのサッカー指導者として

活動していた際に関わらせていただいた

バングーナガンデ佳史扶(カシーフ)選手が

サッカー日本代表に選出されました。

教え子の1人である佳史扶(カシーフ)選手。

この度のニュースに嬉しく思います。

 

少し五月雨的になりますが

私がサッカー指導に関わった経緯と

私のサッカーに関わった経緯などを

書き記したいと思いPCに向かいました。

 

私がサッカーを始めたのは

小学校の4年生の時で

サッカーJリーグが始まった年に

FCアビリスタの全身である

前川少年サッカークラブにてサッカーを始めました。

 

その後、94年アメリカW杯で

ロマーリオ、ベベット、レオナルド、カフー、ドゥンガ、

サンパイオなどなど

錚々たるメンバーでW杯優勝をしたブラジル代表や

 

ロベルトバッジオ、バレージ、マルディーニ

シニョーリ、

 

ストイチコフ、

ゲオルゲハジ、

 

世界に通用するサッカー選手になって

この舞台へ立ちたい!

 

と夢見たサッカー少年でした。

 

中学校へ進学して

学校のサッカー部ではなく

クラブチームへ入団すると

 

学校のサッカー部への入団は不可。

 

ハイレベルな指導を求めクラブチームへ所属する選手が

学校の部活の試合に出場してしまうなど

二重登録などの不正があったために

そのようなルールになったと言い、

 

まるで大人の都合が、未来ある子どもたちの

夢を絶ってしまうことになりかねないルールだなと

子どもながら感じていました。

 

その後、そのルールは撤廃され

クラブチームに所属する選手も

学校のサッカー部に所属できることとなったようでしたが

 

当時は、クラブチームに所属する先輩が

学校では陸上部に所属するなどして過ごしていたために

私も同じように陸上部へ入部。

 

もっとボールを蹴ってサッカーが上手くなりたいのに

学校のルールのせいで陸上部へ所属。

 

体力が必要なサッカーにも当然、

役に立つだろうと言う思いで

陸上部の部活動をこなしていきますが

 

真面目な性格上、全て全力で取り組むことが

成長期の体には合わなかったようで

 

サッカーも陸上部も全力で取り組んだ末

股関節の痛みを発症し、

走ることや、ボールを蹴ることに痛みが発生し

サッカーも、部活動も、見学やお休みが多くなってしまったことがありました。

 

10代の頃の夢は大きく

世界で活躍するサッカー選手になる

と言う夢を抱きつつ

 

スペイン語やイタリア語を

独学で学んだり

留学情報を調べたり

 

夢膨らんだ時期を過ごしていましたが

怪我により断念。

 

そこから、勉強もスポーツも

できた子供ではあったのですが

 

やりたいことができない状態の日々を

過ごすことにより、

 

人生の活力はなくなり

元気もなくなり

やがてうつ傾向になり

成績も悪化。

 

しかし、真面目な性格により

学校を休むことはしませんでしたし

 

サッカー部に入りたかったが

陸上部へ入部という経緯で入部した

陸上部でも、幹部を任され

 

毎日他の部員たちより早くグラウンドに行っては

走れる選手たちのためにグラウンド整備をしたり

タイムを測ったり

 

自分にできることを直向きにこなす日々を

過ごしていました。

 

行っても見学ばかりで

少し治って活動をするも

走ってばかりで痛みは再発。

 

所属したサッカーのクラブチームは

退団するに至りました。

 

自分の足の痛みや精神的な低下は続き

中学生の時は不本意な生活を送ってしまったことを

今でも悔しく思い出します。

 

”マイナスをプラスに”

 

という卒業作文を書いたことも

記憶にあります。

 

人は、そうした悔しい経験や

マイナスと思える経験を強いられることもあるかと思いますが

それらをバネにして、悔しい経験から

人の気持ちがわかるようになったり

活動のエネルギーになったり。

 

そんな文章でした。

 

サッカーで怪我をして

サッカー部に入りたかったのに

学校のルールで陸上部に入り

それでもなお実直に活動を続けた姿を

見てくださっていた親御さんから

涙をしたというメッセージをいただいたりしました。

 

高校へ進学も

理想とはかけ離れたものになっていて

 

サッカーを諦められない自分と

中学校でプレーできなかった事実と。

 

サッカーの強豪校へ入学しましたが

サッカー部への入部は叶わず

悶々とした日々が続きました。

 

ストレスフルな日々は継続し

気がついたらストレス状態で

円形脱毛症、また、さらに発展して

抜毛症という症状も出てしまい

 

高校の3年間も

不遇の日々を送り

 

青春も、部活も

何もかもできなかった思い出が

私の中に残りました。

 

そんな中、学校は一日も休むことなく

通い通し、親の支援の元通わせてもらっていることに対して

裏切りをしたくない思いと

わかってほしいという思いとで

葛藤しましたが

 

学校を一日たりとも休むことなく

皆勤しました。

 

これは、良かったのか悪かったのか。

 

誰にも相談できずに過ごした日々。

相談できる人がいたら

私の人生は変わったのではないかという思いが募り

 

サッカーの指導者を志すようになり

 

私が小学生時代にお世話になった

サッカークラブへ顔を出すようになり

 

毎週土曜日の

小学2年生の練習を担当させていただく運びになりました。

 

毎週が楽しくて仕方がなかったのを

今でも思い出します。

 

自分が子どもたちのためを思って

メニューを作ったり、一緒に遊んだり

喜びあったりして

 

そんな活動を毎週楽しみにしてくれている

子どもたち。

 

親御さんの中の1人が

「うちの子、毎週石塚コーチに会えることを

楽しみにしているんです」

 

という言葉をいただいた時に

ものすごく感動して

 

今現在の、未来ある子どもたちに

より良い社会観光を創造する

 

という活動理念は起因しています。

 

サッカーの指導を続けたいという思いと、

18歳になり、体の成長期が終わり、

中高生のうちに問題なく活動をして体の成長ができたわけではなかったですが

足の痛みが次第になくなってきて

 

子どもたちとプレーする程度なら

毎週楽しくサッカーをすることができていて

 

現役で選手としての経験が浅いのに

サッカーの指導者と語るのはどうなのか、

 

若いうちしかプレーできないスポーツであるにも関わらず

プレーする道を諦めるのはどうなのか

 

かなり葛藤しました。

 

その時の決断としては、

 

一度大学へ入学して

体育会のサッカー部で活動をすること。

 

この道を選択しました。

 

ですが、中高とプレーしていない選手を

採用してくれる学校もあるわけもなく

 

精神状態不安定にて勉強もままならなかった時期を過ごした自分に

選択できる進学先があったわけでもなく、

 

ようやっと探して、見つけた学校にて

サッカー部に入部をし

活動することになりました。

 

埼玉県リーグにて活動し

サッカーの指導経験と、小学生の頃から

技術と判断に重きを置いた指導をしてくれていた

おかげさまで、幹部を任されることができ

大学は活動することができました。

 

しかし、

やはり、中高時代に問題なくプレーできていれば、、、

 

という悔しさを脱ぐ生きることができず

その時に成長しきらなかった体と

 

うつ状態にておそらく正常ではない

曲がったような体とで葛藤し

思うように体が動かない悔しさも感じていました。

 

プレーしては痛くなり。

根性だけで走り切る。

 

もっとやれるはずなのに。

 

こんな悔しい思いがありました。

 

大学3年になる頃には

さらにレベルの高い環境を求めていて

 

インターネットで検索をしたところ

住んでいた埼玉県川口市の隣町

 

浦和を拠点に活動する

フットサルチームがあることを見つけ

 

そのチームの監督は、元浦和レッズの10番を背負った福永泰氏であり

フットサル日本代表選手や、元Jリーグのユースチーム所属のメンバーが

多数在籍しているチームということがわかり、

 

ホームページから連絡をして

入団テストを受けさせていただく運びになりました。

 

こんな世界があるのか。

 

技術も判断も体の動きも

プロよりも上手なフットサルの世界。

 

まだまだ上のレベルがあり

もっと成長できると感じ

環境に飛び込むことになり

 

当時練習生がもう1人いましたが

ある練習の終わりに

 

「洋輔、やる気あるか?」

 

と入団の許可をいただいた

経緯があります。

 

そこから、フットサルチームでの活動を経験させていただき

県リーグ、関東大会と、ハイレベルな環境で

鍛えてもらいました。

 

ある時、年齢別の選抜活動があり

23歳以下の埼玉県選抜が組まれることになり

練習に参加させていただいたところ

メンバーに選出をしていただくことができました。

 

当時、チームでの活動を継続して

ハイレベルな選手の方々と練習を過ごしていたので

 

年齢制限のあるチームでは

試合を自分の指示でコントロールできていることに

気がつきました。

 

23歳以下の埼玉県選抜チームでは

主力として出場することができ

 

当時開催された全国大会では

後に日本代表で活躍する

小曽戸允哉選手たちと共に

優勝することができました。

 

成長期が終わってからでも

大人になってからでも

上手くなれるということを

自分の体を通して経験し、

サッカー人として一回り

経験値を上げることができたと感じられる

時期でした。

 

フットサルの経験をしたことで

プレーへの理解も深まり

 

フィールド上で何がどうなって

今の事象に至るのか

狙ってできるようになり

分析できるようにもなりました。

 

その経験が

後のサッカー指導者の活動にも

有効な引き出しになったことは

言うまでもありません。

 

やがて、大学を卒業することになり

サッカーの指導者一本で活動をするのか

 

働きながら現役生活を続けるのか

選択に迫られることになりました。

 

まだ、サッカー選手の活動も

何もなし得ていないと言う思いと

 

引き続きサッカー選手としても活動を

続けたいと言う思いから

関東リーグでのプレーを決断し

入団テストを経て入団。

 

開幕戦スターティングメンバーとして

出場することができました。

 

中高生をプレーしていない人間が、

大人になっても諦めずに上昇を描いていれば

このようなレベルでもプレーができるものと言う

実績を残すことができたことは

 

諦めないで活動したと言うことを

未来ある子どもたちにも

自信を持って伝えられることになると

想いを継続して良かったなと思っています。

 

しかし、社会人として仕事をしながら

レベルの高いリーグでプレーするのは

体力的にも厳しいことを身をもって体験し

 

好きなことを続ける、

やりたいことを続けるのは

 

自分次第ではありながらも

そのような環境や行動を貫き通すことは

並大抵のことではないと言うことも

身をもって体験しました。

 

好きなサッカーを続けたくも

家庭とのバランスで諦めざるを得ない選手。

 

コーチ、指導者として

未来ある子どもたちのために活動をしたいと思っている

大人にも、自分を犠牲にしなければ

なしえない動きになると言うことも経験しました。

 

サラリーマンとして、社会人として経験値も積み

現役も引退をし

 

夢であったサッカー指導者の道へ

飛び込むことになったのは

20歳も終盤に差し掛かった時のことでした。

 

ご理解をくださった千島監督、コーチ

関係者の方々のご理解、活動を共にしてくださった方々への感謝は

忘れません。

 

有難うございます。

 

そこで出会ったのが

バングーナガンデ佳史扶選手

当時から、クラブへは有望な選手が入団してくるような

実績あるチームで指導をさせていただきましたこと

感謝していますが

 

佳史扶選手が高学年になった際に

担当として活動を共にすることができました。

 

サッカー指導者としても

実績を積むことができ

取材なども来ていただけるようにもなりました。

 

石塚洋輔 サッカー 指導

何かで調べていただけたら

該当の記事がいくつか出てくると思います。

 

”楽しんで上手くなる”

 

これが私の考え方。

 

サッカーも、何事もですが

夢中で楽しいから

 

もっと上手くなりたい

改善したい

と言う思いが出てくるのであって

 

楽しくなければ何事も続かないと思っています。

 

ならば、楽しい状態を作り出し

その中で切磋琢磨や工夫が生まれるように

活動内容を考え研究し

子どもたちへ提供してきました。

 

何よりも、

人間的なことも一番に大事に考えて

 

荷物の整理整頓、

育ててくれて、日常の生活、食事

送迎など、親御さんへの感謝、

 

一緒に活動する仲間への感謝。

対戦チームへの感謝。

 

目と目を合わせて挨拶をすることの

大切さ。

 

そんなところができていなかった際には

子どもたちを叱った覚えがあります。

 

だからこそ、たくましく、

自分の人生を考え、人に感謝し

生かされている幸せと、

自分自身精進し、理想を追い求めて

精進していく大切さを

感じてもらったのではないかと思っています。

 

佳史扶との思い出で言うと

心優しくとても謙虚な子であったと言う印象が

1番に上がってきます。

 

身体能力にも優れ

試合をすれば活躍をしますから

 

調子に乗ってしまう子もたくさんいるような中で

佳史扶はいつも謙虚で素直でした。

 

周りからの信頼も厚く

チームの中で人気者でした。

 

そんな佳史扶と一緒に生活をした他の選手たちも

とっても楽しかったと思います。

 

そんな素直で可愛い性格の佳史扶が

小学生や選抜チームなどでは

身体能力もあるので、FWや前の方に配置され

点を取る役割になるのは目に見えていて

しかし、その性格から、

将来は、左のサイドのディフェンスになるのではないかなと

思っていました。

 

チームでは子どもたちが自主的にポジションを決めて

ゲームを行うときに、佳史扶が左サイドバックで

出場していたこともありました。

 

私自身も選手を始めた時は、左サイドバック。

ホスピタリティの高い日本人が世界で活躍するポジションは

サイドバックであることも

長友佑都選手、内田篤人選手

酒井宏樹選手など、たくさんの事例で証明されています。

 

責任感と思いやりときめ細やかさ。

 

もしかしたら、サイドバックで重宝されるようになるのではという思いと

大人になってから、汎用性が効くようにと

 

小学校時代は前の方の点取り役に

どこに行っても配置されるであろうことがあったので

チームの中では

 

一番前のポジションだけではなく

ど真ん中をやって

 

攻めにも守りにも

全部自分がやるんだくらい顔を出して

 

サッカー自体を上手くなるように

心がけて日々を過ごすようにアドバイスをした

覚えがあります。

 

周りの分も走り回り

自分が責任を持ち

仲間を助けてプレーすること。

 

これが、佳史扶の性格と

それを活かした活躍の仕方なのではないかと

私なりに接していました。

 

中学校に上がると

FC東京へ所属。

 

そこからは人伝に活躍を聞くことになりましたが

私が日本サッカー協会の育成部で事務をしていた時にも

世代別の代表に名を連ねてきた情報は耳に入り

 

その後、高校でもFC東京へ

そしてJリーガーへと道を進めていった

佳史扶の活躍に大変嬉しさを感じていました。

 

Jリーグの登録はDF。

出場でもDF。

 

まさに、小学生時代に

佳史扶の性格などを思って

もしかしたら左サイドバックとなるであろう予測が

的中。

 

これから世界に向けて羽ばたいていく

佳史扶の活躍に目が離せません。

 

小学校の時に、

目標設定シートを半年ごとに書かせていて

 

その時に佳史扶は

カタールW杯へ出場することと

 

ガーナに学校を作ることを

書いていました。

 

カタールへは叶わなかったものの

W杯へ出場する夢は

次回へ向け、続いていますね!

 

また、学校を作ることや

社会に貢献することも描いている佳史扶と

何か一緒にできることはないかと

将来一緒に何かできたら私は嬉しいなと思っています。

 

取り急ぎ、佳史扶が日本代表に選出されたニュースを聞いて

私がサッカー選手を目指した少年時代と

サッカー指導者として活動した時代と

佳史扶との思い出を徒然に書きましたが

 

スポーツが社会の発展、

諸処の社会問題の改善、人々のコミュニティ形成

未来ある子どもたちの人格形成等々に

さまざまに影響できることも身をもって経験してきましたので

 

私の会社の体力をもっともっと拡充し

自分自身さらにステージアップして

貢献できることを増やしていきたいと

さらに思った今日この頃でした。

 

街のコミュニティ形成

スポーツチームの支援

スポーツに携わる、子どもの教育に携わる人の

労働環境の改善。

 

ご縁あるところから

さらに活動していきたいと思っています。

 

長くなりましたが改めて

佳史扶おめでとう!

 

そして、関わってくださった方々へ

感謝致します!