≪脊椎管狭窄症の症状、検査、手術、帰宅、リハビリの報告  その2≫ 村松さんからのレポートです。 | 私たちの50年!!

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1962年5月にサントス港に着いたあるぜんちな丸第12次航の同船者仲間681人の移住先国への定着の過程を書き残すのが目的です。

≪脊椎管狭窄症の症状、検査、手術、帰宅、リハビリの報告  その2≫ 村松さんからのレポートです。

 

#3: 個室滞在4日間: 

     リカバリー室で目覚め、12時過ぎ2人の医師が様子を聞きに来た、通常脊椎の1、2箇所の問題であれば顎の下から抜刀するが、私の場合はMRIの結果4箇所に達していたため首の後ろから抜刀し内視鏡とともに検索したが、更にC7まで修復が必要だったので切開部が拡大し長時間となったが手術は成功したと言われた。下顎から首回りにかけてカラー(首が静止する器具)を装備されていた、又血液を浄化するための血液回転浄化装置も取り付けられ、抗生物質液が点滴、痛み止めは注射を打たれた、同時に尿はパイプを挿入され自動排尿、便はほぼ2日間食しておらず排泄はないが、あった時はそのままシーツにできるように装備されていた。看護師がリンゴジュースを飲ませてくれた、その美味しさは格別であった。

 2日目の朝食は流動物や柔らかなゼリー状の物が出た、看護婦が口まで運んでくれた、昼食時には医師の診察がありOKであった、夕食は家内の手助けで完食できた、尿管も外され専用のプラスチックのボトルに自分で排尿する事になり、便はプラスチックの丸い桶のような物を尻に敷いて排泄することを教えてくれた。笑ってしまった事は尿瓶の入り口に息子が入らず、若い栗毛の可愛い看護婦に「大きい瓶に変えてくれと」言うと、「このサイズしかなく誰でも挿入できている」と言われ首を傾げ突然息子を手で掴んで引っ張り出し「ほら入ったでしょ」と笑った、恥ずかしさの余り涙が出た、いや嬉しさの余と言った方が正解?。

 家内と娘(近在在住で1週間の休暇をとり)入院から退院まで毎日夜遅くまで通院してくれたことも精神的に安心できた。

 3日目は抗生物質の点滴、血液循環装置が終了し、痛み止めはカプセル薬となった、看護婦の助力で立ち上がってトイレに行くことが出来た、昼食時2名の医師の診察があり私の回復が極めて順調で明日か明後日には退院可能と言われ嬉しかった、この3日間は喉の渇きがひどく呼び出しボタンを何度も押して看護婦に飲ませて頂いた、夕食前に看護婦の助力でヲーカー(前に車が付いて手で押しながら歩く)を使ってナースセンターを一周させられ、明日は退院できますねと言われた、早速娘婿(大型の車所有)に連絡し迎えを依頼した。

 4日目の朝食を取り終わると、2名の医師が診察に来て退院許可が出た、日系2世の脳外科医は日本語も堪能で父母が名古屋出身で家では家族は日本語を話し夏休みは日本の祖父母に家で過ごしたという、私の娘をほぼ同年代で娘も全く同じで夏休みは日本であった、カリフォルニア大学も同じだったが選択した学部が異なっていた、話が弾んでいたが退院後の解説を娘に丁寧に英語で伝えてくれた、退院後週2回2名の専門セラピストによる自宅でのリハビリ8週間、2週間後と4週間後の病院出頭で医師の診察等も確定し、薬局から抗生物質物質2週間分と痛み止め薬、筋肉和らげる薬等を頂き、ナースセンターにお礼を言って娘婿の大型車で家に帰還することが出来た。やはり自宅いいものだと旅行から帰還した時と同じ感覚を覚えた。