ブラジル日系社会=『百年の水流』(再改定版)=外山脩=(391)
2026年5月1日
外部からの問い合わせに一々応じていると、捌ききれぬ数になってしまうためのようだった。
結局、この企画はボシャッタ。
以下は、当時、つまり百周年前後、筆者の耳に伝わって来た断片的な話である。
まずコチアであるが。──
組合の資産の内、大型のそれの一部は、競売に付されたり賃貸されたりしていた。
例えば組合本部は、非日系の企業が買い取り、別の企業に賃貸中だった。
(その他の資産も含めて)競売で得られた収入は、清算人の報酬や経費を除いた分は、債権者に支払われていた。その債権者で優先権のある従業員への支払いは、やっと半分を越したということであった。
アサイの紡績工場は、北パラナ単協の元組合員が作った新組合インテグラーダの管理下にあった。
ミナス州サンゴタルドやサンタ・カタリーナ州サン・ジョアキンの施設は、地元の元組合員が設立した新組合が使用中だった。
無論、前項で記した格安・長期の賃貸方式であったろう。
債権銀行との係争は、アコルド(示談)が済んだ部分もあるという話もあったが、詳細は不明だった。
債権銀行といっても、実はその多くが、既述の様な中銀による強引な再編成で、他行へ身売りしていた。が、その銀行を買収、債権を引き継いだ銀行の法務部が、支払い請求をしているらしかった。
組合員や従業員の組合内預金であるフンド・ロタチーボの未清算分は、見通しが難しくなっていた。
債務の個人保証をしていた元役員個人に対する債権銀行の訴訟は停止状態にあった。小川、ゼルヴァジオに次いで、二〇〇〇年代に入り片山、八百が死去、生存しているのは高野、前園、内海三人のみであり、それも「取れないものは、どう仕様もない」ためだった。
元の単協や部落を単位に設立された新組合の動きに関しては、これも前章で少し触れた。
単協のそれは、インテグラーダのみであったが、これは健闘していた。
部落では、やはり前記のサンゴタルド、サン・ジョアキン以外では、サンパウロ州のヴァルゼン・グランデ、イビウーナ、カッポン・ボニート、タツイ、パラナ州のポンタ・グロッサ、カストロ、南マット・グロッソ州のドラードス、ミナス州のピラポーラ、ツルボランジャ、バイア州のジュアゼイロなどが存続中とのことだった。
インテグラーダは、十三、四カ所の部落が参加して出発したから、これを含めれば、二十数カ所の部落が、生き残っているという計算になった。
組合の全盛期、部落は八十数カ所あったから、ほぼ四分の一の残存率だった。
コチアには、グループの企業、GTC(部落別出荷組合)、団体があった。
企業では、信用組合が中央会と同時期、業務を終了していた。
種子のアグロフローラは、早い時期に日本の坂田種子へ売却されていた。
搾油のイルパーザは一時、工場が第三者に賃貸されたが、既に存在しないということだった。清算人によって競売されたようだ。
日本の共栄火災と合弁の保険会社コンコルジアは、コチア側の出資分が日本側に売却されていた。その代理店プロミソールも同じだった。
農産物売買のリセイアは閉鎖したという。
ホールディング・カンパニーのCODAIは、一九八〇年代半ば、不動産会社へ改組され、株主も次第に変化、コチアとの関係は薄らいでいた。営業を停止したという噂もあった。
GTCは、部落単位で組織していたため、その後は、一つ一つ事情は異なった様であるが、具体的な話を耳にすることはできなかった。
団体ではクルーベ・コペルコチア(スポーツ・娯楽クラブ)は、差し押さえられる危険があったが、逸早く手を打ち、守り切ったという。
SBC(コペルコチア共済会、診療所)も存続中だった。
組合員農家の後継者育成のための国際農友会は、二〇〇八年に最後の派米実習生を送り出して、活動を終えていた。
このほか、農業高校があったが、二〇〇四年、閉校したという。
専務が掃除夫
次はスール・ブラジルに関する話である。
清算人は富森敏雄に続き、一九九八年、笠原定尚が辞任していた。内蔵が出血するという病によるものだった。専務時代からの気苦労が招いた症状であったろう。(つづく)
