[秩父宮御殿場御別邸]防空壕

静岡県御殿場市東田中1507-7

 

大蔵大臣の井上準之助の元別荘「皆山堂」。草葺き母屋は市内深沢(御殿場アウトレット辺り)の庄屋である小宮山家の住宅で、享保8年(1723年)に建てられた木造茅葺き屋根平屋建て。昭和2年(1927年)に現在地へ移築した。

 

 

 

 

井上準之助は家屋の半分を洋間に改装(既存の部材を利用しながら内壁をハーフティンバー風にして暖炉も新たに設置)。

 

 

明治後期から昭和初期にかけて政財界人や文人などの間で流行したのが、伝統的な古い民家を別邸として使うもので、「田舎家」と呼ばれた。

 

この別荘を昭和16年(1941年)、昭和天皇の弟宮(皇太子嘉仁親王=大正天皇の第2男子)であった秩父宮家が購入して秩父宮御殿場御別邸とされた。

 

秩父宮家は縁側をサンルームに改築するなどしているが、基本的には井上時代のまま使用している。

 

 

 

母屋に隣接する新館は平成4年に建てられ勢津子妃が晩年を過ごした。

 

 

菜園は戦時中、勢津子妃が野菜つくりをしていたところ。

 

戦時中は母屋の屋根に(モルタルを塗り?)迷彩が施されていた。終戦の玉音放送は母屋の西の間で、秩父宮・同妃両殿下は高松宮・同妃両殿下と共にお聞きになられたという。

 

秩父宮・同妃両殿下は、戦中戦後の時期を秩父宮殿下(雍仁親王殿下)の病気療養のためにここで過ごされた。秩父宮両殿下は昭和27年に鵠沼の御別邸に移るまで御殿場で療養され、翌年50歳で薨去された。その後、勢津子妃が主に夏季の滞在に使用され、平成7年に死去された勢津子妃の遺言により御殿場市に遺贈され、平成15年より秩父宮記念公園となる。

 

富士山に対峙する登山服姿の秩父宮像は朝倉文夫の作品。東京は赤坂にあった秩父宮邸造営に際し、昭和天皇から送られたもので、のちに御殿場御別邸に移された。

 

 

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防空壕

防空壕は昭和20年3月16日、別邸西側の竹林に秩父宮・同妃両殿下専用、将校用、宮内省付き人用の3基の防空壕構築計画がたてられた。起工4月8日、竣工6月22日。防空壕の造営には陸軍将兵延べ約400人、近隣の小学生も石積作業に携わったいう。

 

 

戦後は物置等になったり埋められたりと長らく放置されていたが、秩父宮両殿下専用及び将校専用の防空壕は、補修整備の上2015年夏より一般公開されている。

 

 

秩父宮ご夫妻用の防空壕

防空壕は幅約5.6メートル×奥行き約11メートル×室内の高さ約2.4メートル。コンクリートの厚さは床下が約50センチ、天井が約1メートル。まず鉄筋コンクリートで筐体をつくり盛り土して擬装している。

 

秩父宮殿下の病状は、差し迫った危機は脱しているものの、楽観できるものではなかった。いざという時は秩父宮殿下を担架にお載せして、母屋から直接防空壕に入れるようトンネルが設けられていた。

 

 

地下の入り口からジグザグに曲がった長さ約5メートルの通路があり、その先に手前が約4平方メートル、奥が約7平方メートルの2部屋が縦に並ぶ。一番奥に地上に通じる垂直な換気孔があり、壁面には地上に上がるための鉄の階段が取り付けられている。

 

 

 

残念ながら鉄扉は外されている

 

 

居室①

 

居室①から②へ

 

 

 

居室③

 

 

換気孔(通気口)④

 

※以下、庭師?職員?の方に撮っていただいた写真(・∀・)

 

 

では戻ります!

 

居室③から②へ

 

居室②

 

 

 

居室②から通路へ

 

 

 

 

防空壕の上にある換気孔

 

 

戦後、勢津子妃の意思で防空壕に通じる所は完全封鎖(埋めた)。

 

 

勢津子夫人が書いた『銀のボンボニエール』(主婦の友社)の一節。

(昭和20年)7月30日、空襲警報が鳴ったと思うと、御殿場駅の方角でドカーンという大きい音がつづけざまに聞こえてきました。私にもそれが爆弾の音だとすぐにわかりました。御殿場駅から東へ3キロのこの地もいよいよ危ないと思い、手伝いの者と急ぎ走って帰り、宮さまを皆で囲むようにして初めて防空壕に退避いたしました。後で聞くところによりますが、艦載機数機が御殿場駅構内を機銃掃射し、駅付近に50キロ爆弾を8個投下したということです。

御殿場駅の記録を読むと日時不明だが「機銃掃射はあった」が、連合軍の攻撃はこれだけなので、「7月30日に機銃掃射及び駅付近に50キロ爆弾を8個投下した」のは記憶違いだろう。7月30日の空襲は清水市(米機動部隊の小艦艇・不明からの艦砲射撃90発)、伊東市(艦載機グラマン戦闘機2機が機銃掃射及び爆弾2発投下)のみ。御殿場駅の方角でドカーンという大きい音がつづけざまに聞こえてきたのは清水市の空襲のことだろう。

 

 

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将校用の防空壕

L字カーブの短めの通路の先に、鉄扉→1畳間くらいの小部屋→鉄扉6〜8畳間の長方形の部屋mと2室あるのみ。残された鉄扉をみると圧力扉っぽい。部屋の突き当たりにも二重の鉄扉があり、その先は爆風避けの土塁で保護されてる。

 

将校用とあるが駐在武官用であろう。

戦後は秩父宮勢津子妃が物置として使っていた。

 

 

 

 

最初の鉄扉、1畳間の小部屋に入る

 

小部屋から本室に入る

 

 

突き当たりにも鉄扉がある

 

 

最奥を望遠で(*_*)

 

では戻りますか!

 

 

通路というか小部屋というか。

 

 

 

では裏に回ってみる(・∀・)

 

 

 

あった!

本室最奥の鉄扉だ

 

 

覗いてみる

 

 

はやりもう1枚、鉄扉があった。

こちら側は鉄扉と鉄扉の間は小部屋にはなっていない。

少しの空間があるだけ。

 

 

では帰ろう。