[沼津御用邸]防空壕

静岡県沼津市下香貫島郷2802-1

 

明治26年(1893年)、当時皇太子だった大正天皇の静養のために造営され、昭和44年(1969年)12月6日に廃止。旧大蔵省から沼津市に無償貸与され、翌年7月、沼津市が園地と東附属邸と西附属邸を中心とした沼津御用邸記念公園が開設、現在に至る(公開中)。

 

気候が温暖、前面には駿河湾、背後には富士山という風光明美な地ゆえ別荘地として、御用邸が造営される以前から、大山巌(陸軍大臣)、川村純義(海軍大臣)、大木喬任(文部大臣)、西郷従道(陸・海軍大臣)の別荘が建てられていた。

 

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大正天皇がお住まいだった本邸は、昭和20年7月の沼津大空襲で焼失。この本邸は明治25年末から翌26年にかけて最初の新築工事が行われ、同年7月に竣工(木造平屋建ての宮廷建築)。その後、増改築を重ね、さらに付属施設などがつくられた。現存するのは風呂場の土台のみ。

 

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東附属邸は明治36年4月、本邸の東側に赤坂離宮東宮大夫官舎を移築し、皇孫殿下(皇太子時代の昭和天皇)の御学問所として造営された。

 

木造平屋建て、附属建物の増築が少し行われた以外は当時の姿のまま。本邸が焼失した戦後の時期には、皇族の方々のご滞在にも用いられた。

 

 

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西附属邸は明治38年8月、本邸西隣にあった川村純義伯爵の別荘を宮内省が買い上げて、皇孫殿下(皇太子時代の昭和天皇)のための御用邸とした。

 

川村別邸は明治23年頃に建築されたものと思われる。翌39年6月に皇居内の附属建物、その後も増改築を重ね、大正11年に西附属邸が完成した。昭和20年に本邸が焼失した後は西附属邸が本邸の役目を果たすようになる。

 

 

 

 

 

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防空壕非公開)

防空壕は2基つくられた。

ひとつは皇族用、もうひとつは侍従や女官など職員用。

 

昭和天皇は太平洋戦争中は陸海大元帥の立場上、東京を離れることは無かったが、皇族の疎開は認めていた。皇太子の警備には近衛歩兵から儀仗隊が編成された(1個中隊=約100人)。この儀仗隊が防空壕をつくったようだ。また御用邸を守るため、牛臥山の西側の浜には駿河湾に向けて15センチ榴弾砲が設置された。

大正天皇は皇太子時代から延べ日数にすると1,000日以上を沼津御用邸で過ごされた。また昭憲皇太后(明治天皇后)は皇后当時から度々ご滞在、貞明皇后(大正天皇后)も昭和になってからしばしばご利用で昭和8年から延べ900日以上滞在されている。

 

昭和天皇はご誕生の翌年からすでに養育係の川村別邸で夏冬の多くを過ごされ、皇太子時代も長期滞在が多かった。

 

上皇陛下(平成天皇)は、戦前の昭和16年夏の49日を始め、昭和17年37日、昭和18年には夏を含む三たび延77日。昭和19年5月15日から10月末までの予定で義宮(昭和天皇の弟=常陸宮)と共に沼津御用邸に疎開されていたが、沼津の南西10キロの大瀬岬に米軍潜水艦が侵入したことから、沼津での疎開は7月8日で中止された。戦後も度々ご滞在され、その延日数は約400日にも及ぶ。

 

常陸宮親王殿下(義宮殿下)は昭和17年の夏を始めとし、延べ400日以上、9回ご滞在され、その多くが上皇陛下と同時期の滞在。

 

侍従用の防空壕

地下式で盛り土はほとんどなし。出入口は二ヶ所。

換気孔を除くと内部は雨水などで冠水状態。

 

 

 

 

 

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皇族用の防空壕

半地下式。コンクリート製の部屋や躯体をつくり、その上に盛り土をして擬装している。北西と南東それぞれに入口があり、内部構成は八畳位の部屋と控え室。皇族方の誰が使われたかは定かではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和天皇の3人の内親王は栃木県那須塩原の御用邸に疎開(御用邸に簡単な防空壕あり)。上皇陛下(平成天皇)と義宮(常陸宮)は、昭和19年5月15日から7月8日まで沼津御用邸に疎開。同年7月10日から日光の田母沢御用邸に移った(昭和20年7月21日より奥日光/湯元の南間ホテルに移る)。沼津市内の空襲は昭和20年1月9日からであり、防空壕は使われなかった可能性が高い。