【中国共産党早期北京革命活動旧址】2陳独秀故居(「新青年」編集部) | みどりの果敢な北京生活

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7月11日。最高気温34度。最低気温24度。空気質量指数142。

地铁1号线天安门东」から南池子大街を経由して北上する。
 
南池子大街の一番南。长安街沿い。↑ここを入ったら、身分証をチェックしている人がいる。私も必要なのかと思ったら、首を振られた。私は地下鉄で上がっただけだが、天安門側から来たことになる。これから天安門方面へ行く人の身分をチェック。
 
菖蒲河公园。今は入れない。
 
皇史宬(個人の参観は受け付けていない)。
 
 
どんどん北上。
 
微博で見たばかり。
 
拡大。
 
昔の字体の方が良かったと、琉璃厂人という人がコメントしていた。「之前是这样,好好的手写体非改成电脑字体,感觉一下子没了」。記事はここ
 
前進。この建物は1918と書いてあるから、そのとき建てたのだろう。
 
ブログで絶対書いたはずなのに検索できなかった。前回ここを通ったときは営業時間が書いてあって中に入れるようになっていた。ただ高級感漂い敷居が高く、この私が入れなかった。昨日は何の表示もなく、閉ざされたまま。
 
故宫东华门を左に見やる。
 
まだ北上。
 
北池子头条を右折。
 
1本目の左に曲がれるところ(骑河楼南巷)を北上。
 
箭杆胡同を右折
 
陈独秀旧居に到着!3年くらい前に「年末に開館」とあり、ずっと開かなかったので待っていた。今年の夏に公開開始。
 
微信で参観予約ができるのだが、身分証しか入力できない。電話もせず、直接行った。まず「予約していますか?」と聞かれたので「外国人はできない」と言ったら、「できない?」と素っ頓狂な声を出された。知らないのか。外国人が来ないんだろうなあ。健康コード提示だけで入った。
 
 
南側は陈独秀が住んでいたところ。
 
陈独秀とは
[1879〜1942]中国の思想家・政治家。懐寧(安徽省)の人。1915年、上海で雑誌「青年雑誌」(翌年「新青年」と改題)を創刊し、旧文化・旧道徳を批判。1921年、中国共産党が成立すると初代総書記となったが、1929年に※トロツキストとして除名された。(デジタル大辞泉)。
 
トロツキスト……左翼の内部で、極左派、分派活動を行なう者をさして批判的にいう語。
 
編集委員の皆さん。
 
遺品。真ん中は「北大」と書いてあるが、ピッカピカだった。北京大学学長の蔡元培に推薦され、1917年に北京大学の文科学長に就任している。
 
これはコピーでなく、本物の遺品だと思うが、無造作に部屋の隅に置かれていた。盗んでもわかるまい(いや、監視カメラあるから無理だって!)。
 
「昔の人は字が上手いね〜」に尽きる。陈独秀の手紙。
 
窓に障子紙(書道用の宣紙)が貼られていた。一般家庭でも平屋の人がやるけど、防寒のため。すきま風が入るから。ビニールシートを貼る場合もある。
 
北側の部屋は「新青年」の編集部として使われていた。
 
新青年……1915年9月創刊。26年7月廃刊。陳独秀が主宰。徐々にマルクス主義の色彩を濃くし,19年5月にはマルクス主義特集号を発行,その間に胡適らの右派は排除され,中国共産党結成の前後からほぼその機関誌的存在となった。後期には李大釗を代表としてマルクス主義理論の紹介,研究の場となり,近代中国の思想,文化に大きな影響を与えた。
 
 
新青年」の前の「青年雑誌」では表紙の真ん中が顔。これは卡内基(カーネギー)。そして昔のいろんな雑誌が額に入って展示されているんだが、題字が毛筆でいいなーと思う。これは鄭義下碑のような?
 
 
なんて言うんだっけ?今時の若い子がやる、可愛いと自分で思ってるポーズ。そして隷書の「國民」。
 
李大钊の字。「昔の人は……」。日常的に筆を執っていたら、上手くなるわな。
 
この印刷方法はなんて言うんだっけ?試してみたが、字が太くなってしまった。私は一枚だけA4の紙を持っていた。ここに紙が置いていないのは、まあ、そういうサービス精神だから。
 
出ました、国际歌(中国語版)。ヘッドフォンで聞けるというもの。私は歌詞の英特纳雄耐尔、internationalの音訳が大好きだ。
 
中庭。寒かったので座らなかったが、いい感じ。
 
ここからも充実した秋(気温は冬)の遠足。続く。
 
追:Wikipediaの陈独秀の項を読むといい。
逮捕されたときの写真なども載っている。

 

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