おもしろかったです。



『別人「群ようこ」のできるまで』

群ようこ 著



会社員だった頃を思い出しました。



ぱんだも毎日のように夜中まで働いていた頃がありました。

よく文句も言わずに頑張ったものだと思います。



お若い方には信じられない世界かもしれませんが、さんがOLだった頃、そしてぱんだがOLだった頃はパソコンというものがまだ一般的ではありませんでした。

経理の人が使っていたくらいのものです。



職場にもよるでしょうが、パソコン一人一台、というのはせいぜい12~13年前くらいではないでしょうか?

携帯電話というものも一般的ではなく、ポケベルがあったくらいです?



知ってますか?ポケベル?



そして多分、贅沢さえ言わなければ転職もわりと簡単にできた時代でもありました。

もっともこれは多分に性格的なものもあるようで、その時代でもいちど就職した会社で働き続けている人も多数いると思います。(多分そっちのほうが多い・・・かも?)



群さんは・・・



転職に抵抗を覚えないタイプの人だったのですね。

むしろ新しい環境に希望を見出そうとするタイプ。



今の環境の改善を求めて戦うより、自分にとって居心地のいい環境に移ってしまったほうが手っ取り早いですしねにひひ



そういうわけで大学を卒業し、代官山の広告代理店というおしゃれな職場に就職してから後、いくつかの職場を転々としたさん。



最後に出会ったのが、ある日、本屋でふと手にとって衝撃を受けていた『本の雑誌』の編集部。



椎名誠さんの会社です。

この会社、立ち上げたばかりの小さな会社。

4畳半のせまーいオフィスで、群さんは一人孤独に電話番をすることになります。

お給料は3万円。


この月給、当時としてもかなり安かったようです。


それでも、好きな雑誌の出版元。さんは慣れない経理や事務の仕事、さらには編集業務の手伝いまでをこなします。



もっとも最初は注文の電話もなく、あまりに暇だったので一週間で3枚セーターを編んでしまったと書いてありました。それはそれですごいです。クラッカー



椎名さんも暇なら何しててもいいと言ってくれていたそうで、うらやましい限りです。



ぱんだが以前働いていた会社では、ひまと戦うのが仕事。みたいな時がありました。

(忙しいときは忙しかったんですが・・・暇もいっぱい・・・)

だからといって編み物しているわけにもいかず・・・

ネットサーフィンしてましたが、それもいいかげん飽きるんです。

(いまではそれも禁止されている会社っていっぱいあるみたいですけど・・・ま、それはそうですね。会社のパソコンですから・・・)



まあ、それはそれとして・・・


さんはここで他の雑誌社の方たちとも知り合いになり、ときどき原稿を頼まれるようになります。


「本の雑誌」も売れ始め、忙しい日々を送るようになるのですね。

昼間は会社、夜は原稿書き。



そのうち取材原稿の依頼も来るようになるのですが、たったひとりの事務員では取材に出るわけにもいかず、かなりストレスを感じたようです。



そうこうしているうちに本の雑誌社は社員が増え、オフィスも引っ越して広くなり、さんが細々と書いていた原稿も一冊の本にまとめられることが決まります。


そして群さんはあまりの忙しさに睡眠不足から体調不良に陥り、とうとう会社を辞めることを決心するのでした。


椎名誠さんの会社の事務員。

けっこううらやましがられたり、嫉妬されたり・・・

本人の気持ちとは関係なく、さまざまな言われ方をしていたようです。


でも、でも・・・椎名さんは上司、あぶない探検隊の隊長の経営する会社であっても会社は会社。さんはしがないサラリーマン。

会社の都合で使われる日々・・・しかもとっても忙しい・・・



☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*



本の雑誌社での5年半の事務員生活の後、群さんは物書きとして独り立ちします。



お給料は減るかもしれない、もしかしたら生活に困るような事態になるかもしれない。

本の雑誌が売れ始めてからは、ボーナスもあったりしたらしいです)

それでも、もう会社に縛られる生活はしたくない。



ぱんだにもよーくわかります。



この本を読んだ限り、さんの性格ならそんな事態に直面しても、なんとかしてしまいそうです。


現在、さんは好きなときに起きて好きなときに仕事をする、というすてきな生活を送っています。



「こういう生活は収入の不安よりもずっと優る。」

と群さんは書いています。



よかったですねニコニコ



そういえば『きもの365日』の中の愛猫「しいちゃん」て・・・

椎名誠さんからとったんですね、きっと。



「いいかい。どんなに生活に困っても、へんな写真だけは撮らせるんじゃないよ」

というのが、さん退職の際の椎名さんと目黒さん、沢野さんからの送る言葉だったそうです。



群 ようこ
別人「群ようこ」のできるまで (文春文庫)


1948年(昭和23年)12月24日。

有元克己は北アルプスの北鎌尾根にいる松濤明と合流するために出発した。

約束の日は26日。



北鎌尾根を基点に槍ヶ岳穂高連峰を越え焼岳に至る北ア主脈縦走する計画であった。

が、季節はずれの豪雨に阻まれ、二人が合流できたのは予定より二日遅れの28日であった。


いったん下山し、12月30日。

快晴となったのを幸い、一気に行程を進めた。


このとき、二人は日数の空費を取り戻すべく計画を大幅に変更する。雨に濡れて重くなった天幕を麓に残し、ツェルトと雪洞によって全行程を突破しようと考えたのである。



天候がよければ問題はなかった。

しかし翌31日、天候は悪化。そしてこの悪天候は長く続いた。



1949年(昭和24年)1月6日。

遭難。



後に発見された手帳にはこのときの状況が以下のように記されている。



「1月6日 フーセツ

全身硬ッテ力ナシ. 何トカ湯俣迄ト思フモ有元を捨テルニシノビズ、死ヲ決ス

オカアサン

アナタノヤサシサニ タダカンシャ.

(中略)

有元ト死ヲ決シタノガ 6・00

今 14・00 仲々死ネナイ

漸ク腰迄硬直ガキタ、(以下略)」



『新編 風雪のビヴァーク』

松濤 明 



この本はアルピニスト松濤明が残した手記や、山岳会の会報に寄稿された記事を時系列でまとめたものである。

2000年版の新編は、過去4回発行された同名の書籍では洩れていた記事も掲載され、再編された。



松濤は小学校5年生のとき、奥多摩の御岳山に登った。

それをきっかけに山の魅力に取り付かれる。

その後、中学校3年生までの間に東京近郊の山はほぼ全て登りつくしてしまったという。

その先に待っているのは、さらに高い山であり、岩と氷の世界であった。当然のように松濤はそれを目指した。



1938年3月、優秀な山岳部を擁する松本高校の受験を試みるが失敗。(成績云々ではなく、穂高に入っていて天候悪化したため受験日に間に合わなかった)

同年、社会人山岳会の登歩渓流会に入会する。



戦争気運の高まる中、松濤はひたすらに山を目指した。



1941年、徴兵猶予の特典を得るため、東京農大に入学。ここで有元と知り合う。



1942年、農大山岳部員、鈴木健二と共に北岳バットレス中央稜を登攣。

今でこそ北岳は麓の広河原まで車でいけるが、当時は鳳凰山を越えて行かなければならなかった。このときの記録が抜けていたため、1948年7月の同山岳部員、宮沢憲との登攣が、初登と思われていた。今回の編纂でこの部分が加えられた。



1943年12月、学徒動員により帝国陸軍に入隊。

1945年8月15日、終戦。

1946年4月、スマトラより帰還。

父親の死によって家長となるも、思い捨てがたく再び山へと向かう。



乏しい食糧、絶悪な交通事情にもかかわらず、松濤の情熱は衰えることを知らなかった。



そしてそれは、自らの力のみによって頂をめざすことであった。

サポート隊を利用しない。

有元との最後の山行もそういう方針のもとに計画されていた。



また、ルートハンティングに代表されるスポーツ登山にも疑問を呈している。

松濤は言う。



嶮しいところを登るのが悪いと私は言っているのではない。より困難なルートを登れるものなら、どんな困難なルートでも登ってくれ。だがそのルートの終わりには必ず頂があり、ルートとして独自に評価されるものでなく、その頂のより魅力的な道程であることを忘れないでくれ。



松濤と山との対峙はきわめて真摯なものであった。

山の全てと向き合う。



描くことの悦びではなく、描き上げることの悦び。



古い盃に新しい酒を盛って。われわれは昔ながらのピークハンティングの中に健全なスポーツ的感興を求めていこう。



松濤は自らの信念のままに山に向かう。

現在はポピュラーなヴァリエーションルートであっても、松濤以前には登頂の記録のないものもある。

松濤明は古い盃(ピークハンティング)に新しい酒(未踏のルート等)を注ぎ続けた。



そして1949年1月。

農大の友人、有元克己と共に北鎌尾根を出発した松濤明は、その消息を絶ったのである。



1月26日、捜索が開始されるが、日数及び準備の不足、また天候の変化によって発見に至らず。

その後数回の捜索を経るも積雪等により、遺品以外の発見はできず。

そして同年7月、捜索隊と入れ違いに山に入った法政大学山岳部によって二人の遺骸は発見された。



1949年(昭和24年)7月23日。

松濤明有元克己の遺体は、登歩渓流会東京農大山岳部及び法政大学山岳部の手により、発見現場である千丈沢四ノ沢出合において荼毘に付された。



冒頭の手帳はこのとき発見されたものである。


手帳はカメラ、フィルムと共に紙に包まれ、おそらくは発見されやすいようにとの配慮から、人の目につきやすい岩の上に置かれてあったという。


ところどころ、空白のページがあるのは、手が硬直して手帳を一枚づつめくれなかったためであろう。


遺書とも言えるこの記録には有元によるメモもあり、周りの人々への感謝と侘び、そして今回の山行のために買った米代の支払いの件までが記されている。



そこに迫る死が、恐ろしくはなかっただろうか。



サイゴマデ タゝカフモイノチ、友ノ辺ニ スツルモイノチ、共ニユク.   (松ナミ)

(中略)


井上さん おせわになりま(六頁空白)した

荒川さん シュラフお返しできず すみません     有元


我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル

個人ハカリノ姿 グルグルマワル     松ナミ





松濤明 享年28歳(満26歳)

有元克己 享年27歳(満25歳)




本書は、稀有の登山家松濤明の魂の記録である。





※ 太字は全て(株)山と渓谷社刊行の『新編 風雪のビヴァーク』からの引用です。



松濤 明
新編・風雪のビヴァーク (yama‐kei classics)



ブログネタ:今どこ? 参加中
本文はここから


ぱんだはたいてい埼玉のはずれの自分の部屋にいます。

六畳一間のこたつ付。
ぬくぬくしながらパソコン開いて、アメブロ書いて・・・・・・


って、そんなことはどうでもいいんですプンプン

たった今、たったいまー!!!!!!!!!!!!

・・・2時間かけて書いた記事が消えました。
うっかりこたつからマウスが転げ落ちたと思ったら・・・・・・爆弾

が、画面が、画面が、消えてる?ガーン

どんなに叫んでも戻ってこないよーーー叫び 叫び 叫び

どこー?
今、どこにいるのーーー???

帰ってきてよーーーーーーー。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

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ぱんだの2時間はいったいどこに・・・?

泣ける・・・

もう、書き直す気力ないです・・・

ちなみに書いてたのは・・・
『風雪のビヴァーク』
登山家、松濤明さんの本です。

「友ヲ捨テルニシノビズ、死を決ス・・・オカアサン、アナタノヤサシサニ、タダカンシャ・・・」
手帳にそう記して北鎌尾根で遭難した、昭和20年代の登山家の手記です。
それだけじゃないですけどね・・・

気を取り直して後日また書きます。

・・・・・・もう、寝るしょぼん