1948年(昭和23年)12月24日。
有元克己は北アルプスの北鎌尾根にいる松濤明と合流するために出発した。
約束の日は26日。
北鎌尾根を基点に槍ヶ岳、穂高連峰を越え焼岳に至る北ア主脈を縦走する計画であった。
が、季節はずれの豪雨に阻まれ、二人が合流できたのは予定より二日遅れの28日であった。
いったん下山し、12月30日。
快晴となったのを幸い、一気に行程を進めた。
このとき、二人は日数の空費を取り戻すべく計画を大幅に変更する。雨に濡れて重くなった天幕を麓に残し、ツェルトと雪洞によって全行程を突破しようと考えたのである。
天候がよければ問題はなかった。
しかし翌31日、天候は悪化。そしてこの悪天候は長く続いた。
1949年(昭和24年)1月6日。
遭難。
後に発見された手帳にはこのときの状況が以下のように記されている。
「1月6日 フーセツ
全身硬ッテ力ナシ. 何トカ湯俣迄ト思フモ有元を捨テルニシノビズ、死ヲ決ス
オカアサン
アナタノヤサシサニ タダカンシャ.
(中略)
有元ト死ヲ決シタノガ 6・00
今 14・00 仲々死ネナイ
漸ク腰迄硬直ガキタ、(以下略)」
『新編 風雪のビヴァーク』
松濤 明 著
この本はアルピニスト松濤明が残した手記や、山岳会の会報に寄稿された記事を時系列でまとめたものである。
2000年版の新編は、過去4回発行された同名の書籍では洩れていた記事も掲載され、再編された。
松濤は小学校5年生のとき、奥多摩の御岳山に登った。
それをきっかけに山の魅力に取り付かれる。
その後、中学校3年生までの間に東京近郊の山はほぼ全て登りつくしてしまったという。
その先に待っているのは、さらに高い山であり、岩と氷の世界であった。当然のように松濤はそれを目指した。
1938年3月、優秀な山岳部を擁する松本高校の受験を試みるが失敗。(成績云々ではなく、穂高に入っていて天候悪化したため受験日に間に合わなかった)
同年、社会人山岳会の登歩渓流会に入会する。
戦争気運の高まる中、松濤はひたすらに山を目指した。
1941年、徴兵猶予の特典を得るため、東京農大に入学。ここで有元と知り合う。
1942年、農大山岳部員、鈴木健二と共に北岳バットレス中央稜を登攣。
今でこそ北岳は麓の広河原まで車でいけるが、当時は鳳凰山を越えて行かなければならなかった。このときの記録が抜けていたため、1948年7月の同山岳部員、宮沢憲との登攣が、初登と思われていた。今回の編纂でこの部分が加えられた。
1943年12月、学徒動員により帝国陸軍に入隊。
1945年8月15日、終戦。
1946年4月、スマトラより帰還。
父親の死によって家長となるも、思い捨てがたく再び山へと向かう。
乏しい食糧、絶悪な交通事情にもかかわらず、松濤の情熱は衰えることを知らなかった。
そしてそれは、自らの力のみによって頂をめざすことであった。
サポート隊を利用しない。
有元との最後の山行もそういう方針のもとに計画されていた。
また、ルートハンティングに代表されるスポーツ登山にも疑問を呈している。
松濤は言う。
嶮しいところを登るのが悪いと私は言っているのではない。より困難なルートを登れるものなら、どんな困難なルートでも登ってくれ。だがそのルートの終わりには必ず頂があり、ルートとして独自に評価されるものでなく、その頂のより魅力的な道程であることを忘れないでくれ。
松濤と山との対峙はきわめて真摯なものであった。
山の全てと向き合う。
描くことの悦びではなく、描き上げることの悦び。
古い盃に新しい酒を盛って。われわれは昔ながらのピークハンティングの中に健全なスポーツ的感興を求めていこう。
松濤は自らの信念のままに山に向かう。
現在はポピュラーなヴァリエーションルートであっても、松濤以前には登頂の記録のないものもある。
松濤明は古い盃(ピークハンティング)に新しい酒(未踏のルート等)を注ぎ続けた。
そして1949年1月。
農大の友人、有元克己と共に北鎌尾根を出発した松濤明は、その消息を絶ったのである。
1月26日、捜索が開始されるが、日数及び準備の不足、また天候の変化によって発見に至らず。
その後数回の捜索を経るも積雪等により、遺品以外の発見はできず。
そして同年7月、捜索隊と入れ違いに山に入った法政大学山岳部によって二人の遺骸は発見された。
1949年(昭和24年)7月23日。
松濤明と有元克己の遺体は、登歩渓流会と東京農大山岳部及び法政大学山岳部の手により、発見現場である千丈沢四ノ沢出合において荼毘に付された。
冒頭の手帳はこのとき発見されたものである。
手帳はカメラ、フィルムと共に紙に包まれ、おそらくは発見されやすいようにとの配慮から、人の目につきやすい岩の上に置かれてあったという。
ところどころ、空白のページがあるのは、手が硬直して手帳を一枚づつめくれなかったためであろう。
遺書とも言えるこの記録には有元によるメモもあり、周りの人々への感謝と侘び、そして今回の山行のために買った米代の支払いの件までが記されている。
そこに迫る死が、恐ろしくはなかっただろうか。
サイゴマデ タゝカフモイノチ、友ノ辺ニ スツルモイノチ、共ニユク. (松ナミ)
(中略)
井上さん おせわになりま(六頁空白)した
荒川さん シュラフお返しできず すみません 有元
我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル
個人ハカリノ姿 グルグルマワル 松ナミ
松濤明 享年28歳(満26歳)
有元克己 享年27歳(満25歳)
本書は、稀有の登山家松濤明の魂の記録である。
※ 太字は全て(株)山と渓谷社刊行の『新編 風雪のビヴァーク』からの引用です。