浴室 -29ページ目

愛しているよ

「愛しているよ、家に持って返ってはいけないけれど」


情事の後、ホテルの玄関で靴を履きながら、相手が言った


「持って返らないほうが良いですよ、わたし、手間がかかりますから」


わたしはなるべく、軽く、笑いながら言った、その後、何個か冗談も交えながら








わたしの今の愛人は、一人で、一年間くらい続いている人で既婚者


ああ、正確に言うと、二人かな、でももう一人は会うつもりはないけれど


なんでこんなに続いたのか判らないし、お互い他人に関心があまりないタイプだけどなんとなく続いている


波長があうのか、なんなのか、判らないけれども、わたしは彼のことを今までのどの愛人とも


違う感情で好きだなと思う


相手が大切にしてくれているのも判るし、わたしも何か、してあげたいと思う


二年間位続いている、愛人とかそんな話良く聞いて、そんな話はないだろうと考えていたけれども


でも、そんなこともあるんだろうなと今ならそう感じている



相手はわたしの本名も知らないし、わたしは相手のフルネームをしらない


相手はわたしが普段どんなことをやっているのか、知らないし


わたしも相手が家庭でどんな顔をして奥さんを抱いているのか、もしくは抱いていないのか


そんなこと、何も知らない



でも人と向き合うのが嫌いで、適切な距離を楽しみながら、所謂「恋愛ごっこ」をしたいわたしは


そんな相手が合っているのかもしれない



美味しくて、楽しくて、お金ももらえて、こんな愛人、わたしは続けていきたいと思う



もし相手もわたしもお互い今以上の好意を持ったとしても、わたしは相手の家庭を壊すつもりは毛頭無いし


この距離だから、お互い好意を持っていられるんだと思う





もう何人の愛人という仕事をしたのかも思い出せないし、何をしたのかもわからないけれど


でも多分、あなたのことはこの先、覚えていると思うよ

砕けた欠片を

つなぎ合わせれば良いだけの話なだけだった


つなぎ合わせることをせずに、わたしは砕けるのを待った


砕けた欠片が、壊れていくのをただただわたしは、嫌だなと思いながらも


それが壊れてしまうのならば今が良いなと思いつつ


わたしはわたしを選んで、わたしは砕けるのを見ていた



砕けた瞬間にわたしは泣いたが、それはそれで、全てもう過去から決まっていた気がした


昔から見えていて、それが目の前に差し出された気がした


それを跳ね除ける気持ちも、力も、思いも無くて、わたしはそれを受け入れた






涙を舐めてあげあることも、身体を繋げることも出来なかった





わたしはあなたから逃れたかった、きっと


わたしはあなたの顔色を伺いながら、生きていくことが嫌だった


わたしはわたしの選んだ道を歩いていけないんだったら、あなたを失う道を選んだ


わたしはあなたに支配されるのが嫌だった、わたしは自由でいたかった




あなたの隣で笑っていた時、わたしは幸せで、あなたも幸せな顔をしていたと思うけれど


それはわたしがあなたのいうことを聞いていたからでしょう?


世界で一人だけのわたしの頼れる人、あなたのいうことだけを疑いもせずに、聞いていたからでしょう?




わたしを支配したかったのでしょう?


わたしが追いかけているような、わたしがあなたを欲している様に見える関係だったけれども


あなたはわたしを追いかけていたのね




あなたの手を離して、自由に生きている今、わたしはとても幸せよ


わたしは守るものも、大切なものも、何も増やしたくはないの


わたしはわたしのためだけに生きたい、わたしは、わたしだけのために生きて


わたしの願望だけをかなえたい、わたしの理想と今のわたしはかけ離れているから




あの時、すれ違った時、先にあなたはわたしに気付いていたと思う


ただ、唖然とするわたしをあなたは虚ろな目で見ていた


足だけが止まらなくて、わたしとあなたはやがてすれ違う


スローモーションに見える景色、あなたの顔


すれ違いざまに咳をされて、振り向いた、足を止めないあなた、わたしは数秒見送った




わたしがあそこにいるかもしれないと知りながら、その場にいたあなた


わたしはその日、そこにはいない予定だった


あなたはわたしにソレを諦めるなら最低なんて言ったと思うけれども、わたしは諦めていないということが


判ったと思う、それだけで良かったんじゃないのかと思う


あなたの誕生日のお祝いをした日と同じ服を着ていたわたし、偶然だとは思うけれども





あれから見ていない、あなたが今何をしているのかわたしは判らない


正確には知りたくない、知ろうと思えば知れるのだけれども





あの日、あなたを見た日に、わたしが思ったことは、驚きの他に嬉しさでも、悲しさでもなんでもなくて


借りたモノを返さなければいけないのだろうか


と、そう思っただけだった




わたしは彼が好きだったのか、愛していたのか、判らない


都合の良い人間を彼に求めていたのかもしれない


でも、嬉しさでも悲しさでも、なんでもなかったわたしは


もう彼に気持ちが無かったのだと思った、ただ、それだけ







「もし、わたしがあなたと付き合ったのが、ただ、マゾヒストに興味があっただけで


ちょっと遊んでいただけで、実は好きでもなんでもなかったって言われたら、


もしくは知ったら、どう思う?」




付き合っていた頃、そんなことを聞いたわたしにあなたは





「俺は人のことを恨むようなことはしないよ、だからきっと、恨まないと思う」





そう言ったけれど、あなたの思い出の中のわたしは、今どうなっているの?


わたしのことを今、なんて思っている?

悲しい

全てが嘘なら良い、心に空いた穴を誰が埋めてくれるのか


わたしは悲しい、ただそれだけなのに


蝕まれていく、この感覚、もがいても、抜け出せない


寝たい、眠くない、眠い、食べたくない




ふいに襲ってくる悲しみに耐える術を知らない、比較考慮ができない



わたしは何がしたいのか判らない




冷静な判断を失っていることは、判っているのだけれども



それからあがらう術を知らない、わたし、悲しい




息をするのも重くて、考えるのも面倒




時間の流れに逆らいたいだけ、それだけなの









蝕まれて、わたし、きれいな思い出になるまで、時間がかかる