ムスコの1歳6ヶ月お祝いも沖縄で。
わたしね、沖縄に来て
しみじみ思ったよ。
自分の欲望を塞いで
見なかったことにするのは
傲慢すぎる。って。
自分の中にしか神聖さは無く、
神さま=自分自神だと信じて疑わないわたし。
その「わたし」から浮かび上がってくる
欲望と言うのは
自分勝手な欲望ではなく
神を、魂を
輝かせる欲。
喜ばせる欲。
「あれしたい!これしたい!」
自分の中から浮かび上がる欲望を
単なるエゴとして片付けるのではなく
きちんと見て、確認して、
受け入れて
叶えたいと思ったのなら
叶える。
「これは自分のエゴかもしれない…」
「自分の欲望を叶えるなんて…」
と嘆き悩むのは
謙虚ではなく、傲慢だ。
自分の魂に対して。
どうして、わたしが
欲望を叶えることにこだわるのか。
それは、
欲望を叶えるために行動すると
魂が進化するから。
エゴでも、欲望でも、自分勝手でも
叶えるために行動すると
「あれ?大したこと無かったなぁ」
とか
「これじゃ無かったなぁ」
とか
「なんだ。叶えてみるとこんな感じなんだ」
とか
叶えた後にしか見えない世界が見える。
だから、欲望を塞いで
無かったことにしていると
魂の進化は無い。
だって、やってみないと
見てみないと
わからない世界だから。
やってみた後、大したこと無かったのなら
その欲望は叶えたし、
違う世界を見に行きたくなるし
次のステージを体感したくなる。
もしかすると、
何もしないことが一番の幸せなんだと
気づくかもしれない。
そのまんまの日常が
いつもの生活が
どれだけ幸せで最高なのか
気づくかもしれない。
それを世間では悟りと呼ぶのかも
しれないね。
わたしは、清い人ぶるのは嫌いだ。
やったこともないのに
やった気になって
時間やお金や誰かのせいにして
勝手に我慢して満足した気になって
せっかく湧き上がったことも
エゴだと
片付けてしまう。
お釈迦様のように
厳しい修行を重ねて悟ることは
わたしには出来ない。
死んだ後に成仏できるよりも
生きている間に成仏したい。
我慢を重ねるよりも
魂から湧き上がったことは
体験して死にたい。
この世がすべて幻想だからこそ
幻想だと体感したい。
現代的に、次世代的に
優雅にスムーズに悟りたい。