たぶん六月はわたしにとって
ちょっと不思議なことを味わう月で
 
 
 
ソマティックでの知り合いと、
 
●老いゆく身体(死にゆく身体)

 ~身体には期限がある~

 

●死なない魂

 ~魂は生まれも死にもせず、肉体という器を通して経験し、経験を通して成長する~

 
 
 
 
こんなことについて探求する会を内輪で始めようかと
そんな話が盛り上がっていたところへ
 
去年の六月に書いた
ブログ記事のお知らせが上がってきて
 
 
 
 
 
去年も似たような感じで
あっちの世界とこっちの世界の境界がうすれ
 
あわい(波間)を漂うような体験をしていたのだと思い出させてくれました。
 

 

 
 
(過去記事より↓)
 
 

本当に偶然、というか虫の知らせかも知れないけれど

 

最近、“生きている”ことと、“死んでいる”ことは

 

形態の変化のひとつ

 

本当にそれだけなんだ、って腑に落ちたところでした。

 

 

 

 

 

形が変わることで、

 

もう、

肌に触れたり、

笑ったり、

おしゃべりをしたり、

歌ったり、

踊ったり、

美味しいものを食べて美味しいねーって言い合ったり、

すねたり、

怒ったり、

泣いたり、

ぬくもりを感じたり

 

そんなことがリアルな体感を持って出来なくなるので

 

 

 

ここにいなくなってしまった感、喪失感が大きいけれど

 

 

 

実は、形は変わってもやっぱり誰も居なくなってはいない。

 

 

 

 

 

形あるものは常に変化していて

 

そんな微細な変化に細かく気づいていることが出来るようになると

 

形態の大きな変化も、ショックや衝撃ではなく、

 

だんだんと、緩やかに、穏やかに、

 

寄せては引いていく、崩れては飛沫になっていく、海の波のようだ、と

 

受け止めることが出来るようになってくる。

 

そんな風に、わたしは感じています。

 

(単に年を取っただけ、周りの近しい人をたくさん見送ってきたから、それだけなのかもしれないけれど。)

 

 

 

 

 

『生』 と 『死』 のような明らかな形態の変化の場合は、誰にもはっきりとわかるから

 

衝撃的に大きな出来事に感じられるけれど、

 

毎瞬毎瞬、わたしたちは変化の中に居る。

 

 

 

 

 

生と死は、手の甲と手のひらのように

 

背中合わせのすぐそこにあって

 

背中合わせだから、誰かが肉体を離れると姿が見えなくなる、けれどやっぱり居なくなることはない。

(抜粋ここまで)
 
 
 
 
 
先日の整理収納体験での
モノと向き合い、手放す、ときにも感じたことですが
(手放しは今も継続中!)
 
 
もの、こと、ひとに対する執着に気づき
手放していくことで
 
 
今はどんどん生きやすくなる時
軽やかになれる時。
 
 
生きることは奇跡で喜びだけど
そのことに執着が強すぎると恐怖が生まれます。
 
 
この恐怖によって形づくられた世界は
あまりにも多くのことが制限された、ゆがめられた世界。
 
 
制限を解き、
自分らしく生き生きと自由に生命を解き放つのは

誰もあなたの代わりには出来ない
自分にしか出来ない作業。
 
 
すごく楽しい作業です。
 
 
 


やちむんのカップが可愛い、内観ノートタイム♡

 

 

 
次回コンティニュアムワークショップは

 

 
6月5日(日) 13:20より品川区内で行います。
 
 
 
 

次回のオンライン瞑想会は

 

6月12日(日)の夜 20時30分より(約40分間・無料) 

 

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