先日、知り合いの方のお別れ会に行ってきました。

 

その人とは、たった一度しか会ったことが無くて

 

面倒見がよくて人付き合いの多い人だったから

 

一度会ったっきりのわたしが参加してもいいのかな…、と感じつつ。

 

 

 

 

 

彼が好きだったタイカレーをみんなで食べ

 

クィーンの曲でみんなで踊って

 

歌を歌って、聴いて

 

様々な思い出話しを聞いて、自分も語る。

 

 

 

 

 

 

遺影の笑顔が輝いていて、とてもカッコよかった。

 

 

 

 

遺影に飾られていたお花、みんなで少しずつ、分けてもらってきたよ。

 

 

 

 

ぼんやりとみんなの話を聞いているうちに

 

わたしは数年前にその人と過ごした時のことを思い出して

 

温かい気持ちになり、また懺悔の気持ちにもなり

 

写真の中で笑う彼は、もうすべて受け止めて、許してくれたんだな、というのを感じた。

 

 

 

 

 

 

そのたった一度、その彼と時間を過ごした時に体験したのは

 

ファミリーコンステレーションで

 

ファミリーコンステレーションについて(Wiki)

 

 
 
 
 
 

わたしは

 

お盆の時期の青山墓地が見える場所、ということも手伝ってか

 

わりと鮮烈な、亡くなった母と肉体を通して再び出会う、という体験をしたので

 

ブログにもその時の心情みたいな、ぼんやりとした感想を記してあったので

 

だからここにもう一度それを載せておきます。

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

本当に偶然、というか虫の知らせかも知れないけれど

 

最近、“生きている”ことと、“死んでいる”ことは

 

形態の変化のひとつ

 

本当にそれだけなんだ、って腑に落ちたところでした。

 

 

 

 

 

 

形が変わることで、

 

もう、

肌に触れたり、

笑ったり、

おしゃべりをしたり、

歌ったり、

踊ったり、

美味しいものを食べて美味しいねーって言い合ったり、

すねたり、

怒ったり、

泣いたり、

ぬくもりを感じたり

 

そんなことがリアルな体感を持って出来なくなるので

 



ここにいなくなってしまった感、喪失感が大きいけれど



 

実は、形は変わってもやっぱり誰も居なくなってはいない。

 

 

 

 

 

 

形あるものは常に変化していて

 

そんな微細な変化に細かく気づいていることが出来るようになると

 

形態の大きな変化も、ショックや衝撃ではなく、

 

だんだんと、緩やかに、穏やかに、

 

寄せては引いていく、崩れては飛沫になっていく、海の波のようだ、と

 

受け止めることが出来るようになってくる。

 

そんな風に、わたしは感じています。

 

(単に年を取っただけ、周りの近しい人をたくさん見送ってきたから、それだけなのかもしれないけれど。)

 

 

 

 

 

 

 

あーでももちろん、

愛する人や近しい人が、肉体を離れたら悲しいし、苦しいし、痛いし、

会いたくて恋しくて泣くし、嘆きます。

 

 

 

 

 

 

『生』 と 『死』 のような明らかな形態の変化の場合は、誰にもはっきりとわかるから

 

衝撃的に大きな出来事に感じられるけれど、

 

毎瞬毎瞬、わたしたちは変化の中に居る。

 

 

 

 

 

 

生と死は、手の甲と手のひらのように

 

背中合わせのすぐそこにあって

 

背中合わせだから、誰かが肉体を離れると姿が見えなくなる、けれどやっぱり居なくなることはない。

 

 

 

 

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生きていると、身体があるから、たくさんのことを体験出来る。

 

誰かが肉体を離れると、そんな普段は忘れていることを強く思い出させてくれる。

 

この身体で、たくさん、たくさん、たくさん感じていくよ。
 
 
 
 
 

 

 
 
 
銀ちゃん、ありがとう♡