祈り人ゆうしんさんの青梅の祈りイベント活動のご縁で知り合った、はすみちこさんの主催するイベントが三ヶ日であり、 好きなことを話していい、というので、 15分のお時間をいただき、 自分の作家としての経歴と、光の柱の祈りについて話をしました。興味を持ってくれた方が終了後に声をかけてくださいました。私の本を買ってくれたり、光の柱のガイドブック(プロジェクトゴールデンアップル発行)を希望されたり。覚悟して、話してよかった‼️浜松の近辺で知り合いが増えたので、浜松でも 朗読ライブや光の柱の祈りツアーをしましょうという話で盛り上がり。ある人は、私の話(元ネタはガイドブックなのですが)を聞いて、今、 必要なことがすべて入っていると思ったと感想を伝えてくださいま した。 (かなりスピリチュアルな方でした)神理の基本を最初に話したのがよかったのかも。動けば、変わる。これは神理だと思います。儒教で言えば、陽明学。実践あるのみ。 そんなことを感じた三ヶ日のイベントでした。なお、三ヶ日で魂の仲間に出会ったのですが、その話は今後の展開に合わせてシェアしようと思います。
このイベントに集まった人たちの愛の波動に
より、きっと大きな光の柱が浜名湖湖畔に
立ったことでしょう。
(イメージアート)
鬼滅の刃 劇場版より学んだこと。
(ネタバレあり。未視聴勢はスルーすることを
オススメします。)
前半パートは、しのぶさんと上弦のニの鬼との死闘。
後半パートは、炭治郎、義勇と上弦の三の鬼、
猗窩座との死闘。
猗窩座がなぜ鬼になったのかが明かされる。
猗窩座を観ていると、犯罪者に対する赦しの物語を観ているような感じがする。
人を大勢殺した。
だが、本人が殺人狂だったわけではない。
社会の理不尽に追い詰められて、そうなった。
たぶん、世の中の犯罪者の多くはそうなんだろう。
神様が一人ひとりの人生に寄り添うなら、
涙なしには見れないような理不尽さを経験して、
犯罪に走らざるを得ないのではないだろうか。
自分が犯罪者でないのは、運がよかっただけで。
ほんの少しの違いなのかもしれない。
猗窩座を赦すのは、最後は恋人の受け入れる愛。
どんなに刀で斬っても、消滅しなかった。
だが、恋人の霊に抱きしめられたとき、
猗窩座は鬼として、存在し続ける理由がなくなった。
だから、鬼としては滅びた。
肉体は滅んでも、魂は生き続ける。
その魂は、天国にいっしょには行けない。
それは因果応報の摂理があるから、
逃れられないさだめ。
でも、救いはある。
永遠のいのちだから、猗窩座が人間の魂として、反省のときを過ごせば、いつかきっと、また会える。