山川静夫〈歌右衛門の疎開〉と大橋月皎 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信

 六代目 中村歌右衛門

 

正月はやっぱり歌舞伎本でもと、山川静夫が「銀座百点」に折々載せていた随筆を集めた「歌右衛門の疎開」を拾い読みしていたら、大橋月皎の晩年を伝える「酔いどれ月皎」の稿があった。再読本なので以前、眼にしていたはずなのにまったく記憶にない。(のは、なぜ?)

 

大橋月皎の色紙

 

大橋月皎(げっこう)は小豆島の出身、震災(大12)後鏑木清方に憧れて上京、本所寿座の筋書の表紙絵などを描いていた伊藤晴雨の屋敷に仮寓したのがきっかけで華々しくデビューする。雑誌「演芸画報」の表紙絵や、三上於菟吉の「雪之丞変化」の挿絵で知られ、大正末から昭和にかけて、伊東深水と並び称された。

 

山川静夫:歌右衛門の疎開(1980)文芸春秋

 

自ら女形をやるほどの歌舞伎好きで、鴈治郎など知己も多かった。歌舞伎絵色紙は新派の河合武雄との親交から、昭和十年ころから劇場のロビーで似顔絵を描くことを始め「ふっとつかんですぐ画く、こればっかりは私にはできません(伊東深水)」と言わしめた。戦後も亡くなるまで劇場廊下の隅などで色紙を描くのを自身の愉しみとしていた。

 

色紙は当時300〜500円ほどと極めて安価で良く売れたが、月皎はそれでお酒が呑めればと値上げを渋った。家族的には恵まれず、昭和42年に晩年の唯一の弟子鈴木紘三郎に看取られ70歳で亡くなると、厚木神田寺に葬られた。鈴木は皎三と名乗り、いつか墓前に師が好きだった先代梅幸と15世羽左衛門の「かさね」を奉げたい、とある。

 

大橋月皎の色紙が一枚手元にあり、こちらも劇場ロビーなどで描かれたものと思われ、好きなものを描き愉しみ一生を終えられたというべきだろうか。もって瞑すべしである。