早見裕司の〈少女ヒーロー読本〉 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信

 岡田奈々

 

正月用に図書館から借出した光文社版アンソロジー文庫〈古書ミステリー倶楽部〉の一編、早見裕司の「終夜図書館」は濃縮されたジュニア小説の蘊蓄にビックリ。さっそくネット古書店から早見裕司〈少女ヒーロー読本(2015)原書房〉を取り寄せた。

 

早見裕司:少女ヒーロー読本(2015)原書房

スーパーヒロイン画報     (1998)竹書房

 

以前から「闘う少女たち」の起源や過程、発展理由などを知りたいと思っていた。もともと〝少女〟という概念は明治時代に西洋から移入されたもので、子どもと大人の間の短いちゅうぶらりんな時期、やがて「夢みる年ころ」などとも呼ばれ「社会や生産力のしがらみに束縛されず、また何をも持っていない観念的な(早見裕司)」存在である。

 

斎藤環「美少女戦士の精神分析」でも触れたが、その〝何をも持っていない観念的な存在〟がなぜ闘わなくてはならなくなったのか? さかのぼれば、手塚治虫「リボンの騎士」のサファイヤあたりから始まったのか知れないが(本書によると)ジャンルとして明確になったのは斉藤由貴が主演した「スケバン刑事(1985)」麻宮サキあたりか。

 

1980年代には、旧来的な意味での〝家〟意識が解体し核家族化はほぼ完了する。その解体された家族は、市川森一のドラマ「淋しいのはお前だけじゃない(1982)」で、家族がお互いに対等な小集団として再構成へとたどりついた(そうだ)。そんな時代を背景に、家族の中の弱者である〝少女〟は自分の意見(言葉)を持たなければならなかったということなのだろうか?

 

スーパーヒロイン画報 (1998)竹書房

 

〈少女ヒーロー読本〉第2章「闘う少女たち」では、テレビドラマ「スケバン刑事」1〜3を細かく分析していて興味深いのだが、情報が時にディープ過ぎて溺れそうになる。当本は画像がいっさいないので「スーパーヒロイン画報」で補おうと思ったものの、こちらは特撮を中心とした画像データベースで、ただただディープな内容にかえって混乱した。