お葉という女 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信

 sketchbook.075 佐々木兼子(お葉)

 

竹久夢二は白馬会で絵を学び本格的な絵画を目指していたが、岡田三郎助や鏑木清方の助言を受けて(今でいう)コマーシャルな世界で生きる決意をする。しかし当時そうした挿画界は本絵からは一段低い職人仕事とみなされていた。後に夢二ブームが起きたおりも、嫉妬もあって美学生から陰口をたたかれている。

 

有名画家と認められて以降の夢二のもとには多くの女性が群がり気軽に手折っていたようだが、概して女性には嗜虐的冷酷な扱いをしている。最初の妻・環(たまき)には精神的にも責めさいなみ(永遠の恋人とも言われる)彦乃でさえ、結核入院後は心が葉なれ、早々に〝お葉〟を引き入れている。

 

 

 藤島武二:芳蕙        藤島武二:官女と宝船

 

夢二作品のモデルとして知られる〝お葉〟こと佐々木兼子(カネヨ)は秋田の出身で出自はいろいろ複雑なようだ。10代初めに母子で上京すると、やがて東京美術学校のモデルとして知られるようになり、教授であった藤島武二のピエロ・デラ・フランチェスカ風傑作「芳蕙」のモデルを務めた。

 

後に彼女の証言で「官女と宝船」モデルも彼女。その後、緊縛絵で知られる伊藤晴雨のもとから夢二へと流れていった。詳しくは金森敦子「お葉というモデルがいた…夢二、晴雨、武二が描いた女(1996)晶文社」に詳しい。黒田清輝帰朝後の美術界はヌードデッサンが奨励されたがモデルのなり手がいなかった。

 

 金森敦子:お葉というモデルがいた(1996)晶文社

 

初期モデル事情はこれまで木村毅太田三郎らが僅かに書き残しているだけで資料がすくなかったが、さすが金森敦子は綿密な取材を行っていて、だいたいのガイドラインが引けるようになった。お葉にしても貧困から着衣モデルよりもヌードモデルを選んだようで、名画誕生の美神は下層の泥沼に咲く蓮花であったということである。