ジョサイア・コンドルの鹿鳴館 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信

 鹿鳴館の建築家 ジョサイア・コンドル展(2009)図録

 復元鹿鳴館・ニコライ堂・第一国立銀行(1995)

 

北森鴻の未完のミステリ「暁英 贋説・鹿鳴館」は未完のゆえに、最後に用意された謎がやはり気にかかる。読後、図書館から図録やムック本を借出していろいろ眺めているが、作者がどこに導こうとしたのか、当然ながら判りませぬ。せめて、北森が使用した資料・参考文献の記載があれば、ある程度はたどれるかもしれないのだろうが。まことに残念ながら…

 

北森本にあるように(コンドルが設計した他の建物の図面は残されているのに、なぜか)鹿鳴館の設計図面のみ行方が判らず、弟子たちによる複写図も残されていない。その鹿鳴館が取り壊されたのは1940年で、いよいよ太平洋戦争開戦を前に「不経済との理由(かつ、国粋主義的な流れの中)」で取り壊しが決定され、敷地後にはバラックを建築して商工省の分室ができる予定などとある。

 

コンドルと娘のヘレン(アイ子)

 

解体前にも、記録のために図面が作られたようだが、こちらも現在存在していない。残っているのは簡単な間取り図だけなのだが、それでも名物建築だったから多くの写真が残された。コンドルには名も知れぬ日本人との間に生まれた娘がひとりいてヘレン・アイコと名付けられた。「贋説・鹿鳴館」では、銀座煉瓦街の設計を担当した後に失踪したアイルランド人建築技術者・ウォートルスと日本人妻志乃のに生まれたことになっていて〝贋説〟の一部になっているようだが、このヘレン嬢にはとても美しい写真が残されている。

 

 磯田光一:鹿鳴館の系譜(1983)文芸春秋社

 

「鹿鳴館」をキーワードに検索したところ、近代文学作品の中に描かれた鹿鳴館時代のことどもを拾い上げて「欧化」の意味や意義、その過程などを追った評論を見つけた。なかなかの労作で、文芸だけなく建築や音楽分野の「欧化」をも検証している。個人的には、江戸時代的な内容を新奇に装った尾崎紅葉と、その弟子泉鏡花の違いがさらりと読み解かれていて感心した。いずれゆっくりと紹介できたらと思っているのですが…