谷沢永一「文豪たちの大喧嘩」 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
武原はん

谷沢永一の著作は初めて「文豪たちの大喧嘩—鴎外・逍遥・樗牛」があんまり面白いので、今まで読まなかったことを悔いた。鴎外がドイツから帰朝した頃、日本文芸の評論界は端緒にあって石橋忍月と坪内逍遥がその任に就いていた。鴎外は官僚の権化みたいな男だから、帝大出身洋行帰り、欧州最新のハルトマン美学を掲げて、忍月・逍遥をねらい討つように論争をふっかける。いきなりハルトマンで抽象論を展開されてもお手上げの逍遥は、具体的に論じようと提案したが、鴎外は委細構わずである。

逍遥と鴎外の論争は噛み合ず、というよりも意図的に思えるほどに鴎外の仕方は(権威的)居丈高だった。しかし、やがて鴎外が大村西崖との共著という形でハルトマンの縮約「審美綱領」を発刊すると、その内容の矛盾誤訳をついて(雑誌「太陽」を根城にジャーナリスティックに)攻め込んだのは高山樗牛で「ハルトマンこそ欧州の標準基準」と標榜するばかりの鴎外をじりじりと追いつめていく。鴎外はこの論争では完膚なきまでに敗退、なにやら後を濁すと評論界から撤退する。

樗牛は勢いを得て、もう一方の巨峰・逍遥を引きずり出すとしきりと論戦をしかけるが、鴎外の無茶ぶりに慣れたせいか、自前のペースで樗牛を一蹴してしまった。鴎外(や漱石)は多くの子分(弟子)を傘下に勢力を張り、しかも弟子筋に杢太郎や荷風など高名な作家を多く出したから、依然鴎外株は高騰したままで、こうした負の部分は巧妙に隠されてしまった。谷沢永一は当時の雑誌紙上で交換された論争をつぶさに踏査し、その決着を伝えて見事である。