風俗画報:第190号&第46号(東陽堂)
臨時増刊 風俗画報:新撰東京名所図絵 浅草公園(明治30年)
新撰東京名所図絵:浅草中見世通り
東陽堂(吾妻健三郎)発行「風俗画報」は明治22年の発刊、大正5年に終刊、34年間続いたわが国最初のグラフ誌でした。本来であれば写真中心に編集されるところでしょうが、当時日清日露戦争での従軍カメラマンが本国に写真を送るに2~3週間もかかった。しかも戦闘後方の従軍写真ばかりで評判が悪かった。それに比べて、情報と参考資料をもとに描いたこうした挿画(語り絵)は、リアルタイムでかつ臨場感があって人気がでた。
この「風俗画報」のスターが絵師の山本松谷(昇雲)と、編集&ライターの山下重民です。松谷は明治3年高知の生まれ、明治27年6月に東陽堂の絵画部員になると、終刊まで報道画家として活躍します。鏑木清方は松谷の美人画を観て転換したと延べるなど、技量もあり松谷本人ももともとは日本画(本絵)志向だったが、家族を養うため生涯を絵師として通した。「風俗画報」図絵は石版と銅版の折衷したもので、下図をコロンペーパーに写し石版に転写、この校合摺に色指示をした。
山本駿次朗:山本松谷の生涯(平成3年)青蛙房
山本松谷
普段歩くことが仕事だったせいか足腰が丈夫で96歳(昭和40年没)と長生きをした。家庭的には先妻との間に4子、後妻に3子を授かったが、成長したのは2人だけだった。これにはさすがにこたえたようで、数ヶ月お寺に籠るということがあった。この後人生を達観したか、風俗画報以降50歳を過ぎたころからサツキ造りに熱中しだす。生涯通して楽な暮しぶりではなかったが、画縞代は相手の言い値のままで、画商にまかせるのも嫌ったそうです。
戦時中疎開した福井県では、有名な画家とは知られぬまま、近隣の人たちに請われるままにタダで絵を描いてやると、食糧が届くだけでなく地所を見つけ家を建ててやるから移住しろと親しまれた。居心地が良かったせいか帰京したのは昭和23年になった。山本駿次朗「山本松谷の生涯」久しぶりに一気読みでした。著者は松谷生国高知の遠い縁者で、通して温かい目線で書かれています。
槌田満文:明治東京歳時記(昭和43年)青蛙房
風俗画報の山本松谷描く図絵などをもとに明治時代の歳時をまとめたもので、もはや異国といえる日本の風物が鮮やかです。ついでなのでご紹介します。
新撰東京名所図絵:浅草パノラマ館(明治30年)
われらが小山正太郎の特集時に使うはずだった “浅草パノラマ館” の図、すっかり忘れてしまって。なんのために無理して探したのか解りませぬ。小山正太郎は「この画を描くにあたり30余人の助手と、4ヶ月の日数と、一万余円の費用を要した」画伯の霊活なる大手腕によって、日々3,500人以上の観覧者があると述べられる。特に署名はないが松谷が描いたものではないか。