長谷川伸「伝法ざむらい」と山本帯刀 | mizusumashi-tei みずすまし亭通信
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大正9年サンデー毎日掲載の長谷川伸「伝法ざむらい」第17回で、挿絵は矢野矯村(やのきょうそん)です。この回はちょうど、越後長岡藩は牧野忠訓(ただとき)夫人が親藩・信州小諸藩において赤報隊によって封鎖されてしまい、その危急を江戸にいる河井継之助に知らせるべく、夫人の従士渋木成三郎は商人に身をやつして峠を越える。一方河井継之助は、武器商人スネールに売り払った江戸屋敷の書画骨董のたぐいが、以外と高値で引取ってもらえて喜んでいる。

小諸の赤報隊の人数は意外と膨らみ、いざとなったら「あんたに死んでもらわんとならん」と、決死隊を組織した山本帯刀に平然と伝える青年家老河井継之助であります。この山本帯刀(たてわき)は実在の人物で、戊辰北越戦争開戦の榎峠の戦い、今町の戦い、八丁沖の戦いと常に先陣にあり、河井継之助が負傷後の会津への転進では、八十里越の鞍掛峠で殿軍(しんがり)を務めた。ただ、会津城下の南・飯寺村(にいでらむら)の戦いで山本隊は濃霧の中で敵陣内で孤立、生け捕りにされる。

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毎年、飯寺の本光寺では山本帯刀隊の法要を行っていて、一度取材でうかがったことがある。その折のお話しでは、一寸刻み五分刻みといったなぶり殺し状態だったそうで、墓所脇の小川を指差して「血で真っ赤に染まった」と教えていただいた。さて、藩主牧野家のたっての願いで山本家が復活するのは大正5年のこと、継いだのは高野五十六(後の山本五十六)でありました。挿絵上・2枚目が牧野忠訓夫人おつきの渋木成三郎ですが、こちらは架空の人物でしょうね。