第20章 アメリカントップ40 | 音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

昭和の時代の音楽を巡るいろいろな話をしましょう。

 

高2になる前の春休み頃爆発してしまいたくなった。鬱屈していたんだと思う。なんかつっぱってる毎日にほとほと疲れてしまっていたとういうのもあると思う。思えば、小学生の頃はクラスメイトからも教師からもちやほやされていた。結局成績が良かったことが相当な要因を占めていたことに気がついた。今や成績はふるわず、かといってビリでもなく中途半端な真ん中辺で、誰にも注目されなくなっていた。学校を馬鹿にしていたが、かといって中退してジャズピアニストを目指すなんていう勇気も無かった。何かすべてが嫌になってプチ家出をした。でも大人の知り合いもいないし泊めてくれる友達もいないしでそれも成功しなかった。その頃になるとさすがにうちの親も勉強しろと言うようになっていてそう言われると余計に勉強したくなくなった。でも家出が契機となって、ここでちょっとライフスタイルを変えてみようと思いたった。2年になると同時に拒絶していた勉強を解禁した。かといってつまんないことを嫌々やるなんて気は毛頭無かったので、なるべく興味を持てることを探した。というか無理やり興味を持った。すると、憑き物が取れたみたいになって心の平静が取り戻せた。これは助かった。しかも最初の定期試験が終わると成績トップだった。これは何か久々に自尊心がくすぐられ励みになった。うちは進学高だったから1年から目の下にクマを作って1日8時間勉強するやつなんてザラだった。だからみんないっぱいいっぱいだった。でもこちとら全然勉強してなかったので余力が有り余っていて伸び代だらけだったのだ。そんなこんなでうちに帰ると一応その日の復習をするようになった。で、もちろんほかの興味があることは好きにやった。そして、この頃ポップス、アメリカントップ40に目覚めた。キャッシュボックスだのビルボードだののヒットチャートをチェックするようになった。トップ10は、小林克也のFMで、aha,aha ,という美声の生電話音声で知ったが、確かラジオ関東で湯川れい子がトップ40全曲紹介する番組をやっていて、アマチュア無線のために買った、Trioの短波受信機を使って何と名古屋から受信状態悪いなかそのAM放送を聞くことにした。 Ambrosia の How much I feel がめちゃめちゃいい曲で、初めて、EP盤のシングルレコードを買った。Commodores の Easy      Andy Gibb の I just wanna be your everything   Fleetwood Mac の Dreams. 信じられない素晴らしい曲ばかりだった。今思ってもあんな時代は二度と来ないと思う。70年代のミュージックシーンって本当に夢の時代だったのだ。その時に青春を過ごせたなんて、なんて幸せだったんだろう!   Stevie Wonder のSongs In The  Key Of Life が新譜でレコード屋に並んでいたなんて…    今でも信じられない。 

当時は試験の最中よく映画館に通ったものだ。試験の日は早く学校を出られるので、名画座の上映時間に合致するのだ。なので試験中は勉強そっちのけで映画を観に行った。昔は一夜漬け専門の徹夜派だったが、それは卒業して普段勉強するかわりに試験期間中は遊んでいた。渡辺貞夫のマイディアライフ というFM番組の公開録音コンサートの抽選が当たった。試験の前の晩だったけど雨の中自転車を漕いで観に行ったのを覚えている。当時、試験の日に近所の机の女の子3人組が毎度毎度いかに前の晩、勉強できなかったかをずっとしゃべっていて聞いていても胸糞悪かった。自分の点数が悪いことの言い訳を伏線張ってしゃべってるんだかなんだか知らないけど見苦しかったのだ。うちの事情で家事を手伝わされて勉強できなかっただのなんだのという言い訳を毎回延々としているのだ。 俺は、きのう、映画に行ってたよとか、コンサートに行った、とか話したら、彼女らはいったいどんな顔をしただろう? 

映画に行った次の日は物理と英語のテストだったけど、両方ともトップでひとつは100点だった。マイディアライフの次の日の試験もトップだった。何だ、前の日は頭を休ませてリラックスした方が俄然成績いいじゃないか!  以後大手を振って映画館に通えた。もっとも、もし生活指導の先生にそれがバレたら問題になっただろうけど、パチンコに行ってるわけじゃないし、いいんじゃないかなぁ、て思っていた。もう大人なんだし、何事も自己責任でというのがモットーだった。