第19章 ドロップハンドル、アメリカンニューシネマ、ドロップアウト | 音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

昭和の時代の音楽を巡るいろいろな話をしましょう。

 

高校は愛知県立の学校だった。学校へは自転車で通った。その時はFujiのドロップハンドルのめちゃくちゃ軽量の自転車に乗っていて、どこに行くにもそれで行っていた。始業式のあと教室に向かっているといきなり囲まれた。真ん中に前髪でほとんど目が見えない感じで明らかにスケ番風の生徒がいた。当時ってまだ、ヤンキーっていう言葉は一般的でなくて、単に不良と呼ぶか、つっぱりと言っていた。からまれる覚えは無かったが、果たしてそれは中2で演劇部の手伝いをした時のきれいな先輩だった。すっかりイメチェンして最初気がつかなかった。口調も変わっていてかつての優しくてノリの良い感じではなかった。同じ中学から誰が入ったかきかれた。極めて事務的だった。高校では生徒会は必ずしも上級生がやる感じでは無いというのを知ってすぐ副会長に立候補した。が、これは誤算で、中学までの雰囲気とは全く違った。当時の若者はしらけ世代と呼ばれていた。要するに、何かに夢中になったりするのはダサいことだと思われていて無気力を気取ることがかっこよかったのだ。生徒会の選挙なんて、くだらないことの極地で、演説を始めようと思ってもみんな勝手に無駄話していて、何とかこっちに注目させようと面白いことを言うとそれももろ逆効果で野次の嵐と化した。すっかり意気消沈したが、結局当選して生徒会の活動を始めた。でもワクワクすることは何もなかった。困ったのはクラスでのあだ名が副会長になってしまったことだった。それはとうの昔に生徒会をやめたあとも、一部では卒業まで続いた。部活は演劇部に入った。新入部員はわずが2名、僕とバレエをやっている男子。逆に先輩はみんな女子だった。進学校だったので実質活動してるのは1年2年だけだった。やってる演目は、別役実という作家のもので、運命的な出会いを感じた。当時運命を感じた作家はもう1人いた。飯島耕一という詩人で、バルセロナという詩集を読んで雷に撃たれたみたいになった。もともとDali の絵の世界が好きすぎて、シュール・レアリズムに興味があっので、飯島耕一のシュールな詩と別役実の不条理劇はドンピシャだった。別役の脚本で役をもらい最初の公演をした。その時舞台上で自分であって自分じゃない不思議な経験をした。こんな不条理劇、一般の人に受けるか心配だったが、なぜか僕が舞台に登場すると笑いが起きた。一挙手一投足におもしろいように反応が返ってきた。自分の間合いで観客を意のままに操れるかのようだった。よくそれを経験してしまうとやめられなくなるという舞台上の麻薬のようだった。たまらなかった。これが、自分の中のミラクルのように体験上の記憶として残った。のちに、音楽をやる上でそれを求めて、得られないことに長いこと苦しめられることとなる。音楽をやる上でまずテンポという問題があり、それをキープしなければならない足枷が完璧に自由を奪ったのだ。

カッコーの巣の上で  という映画が公開されて、大いなる影響を受けた。ジャック・ニコルソンの演技に心酔してしまった。中学の時はスタイリッシュなフランス映画ばかり観ていたが、今や興味はアメリカンニューシネマに移った。と、同時に、反体制とかドロップアウトとかのキーワードが気になって、ますます学校の勉強がくだらなく思えた。入学時がピークで成績は急降下していったが、気にならなかった、というか気にしない程を装っていた。でも進学校だったのでまわりは勉強ばかりやってるやつらが多かった。自然、クラスで皆と話さないようになった。1日ひとことも発しない日もあって反動か部活ではいっぱい話していた。

うちに帰るとKeithのアメリカンカルテットの一連のアルバムを聴いていた。生と死の幻想、だの、宝島 、だのをワクワクして聴き、いろいろコピーしていた。 

学校では教師が馬鹿の一つ覚えのように、めいだい、めいだい、これができないとめいだいには入れないと繰り返していてほとほと嫌気がさした。小市民的な教師を馬鹿にしていた。めいだい、ったって名古屋だから名大ってわかるけど、東京でめいだい、って言ったら、だいたい明大のことだと思うだろ、と思っていた。相変わらずJazz聴いてるクラスメイトなんていないし、どんどん孤立していく毎日だった。