第15章 日曜日は弁当持って一日中映画館へ | 音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

昭和の時代の音楽を巡るいろいろな話をしましょう。

 

中学時代の話です。小学校の流れで野球部に入りましたが、野球に対する熱量はすでに下がっていたと思います。アマチュア無線の国家試験に合格してそちらに熱中しました。誰と交信しても結局相手は大人なわけで、(でもこちらが中学生だということは自分で言わない限り向こうにはわかりません)ちょっと大人の世界に片足を突っ込んだ気がしたものです。アマチュア無線独自の言葉、いわゆる隠語みたいなものがあって、たとえば良い、とか素晴らしいという意味でFBと言ったりしました。NGの方はなぜか一般にも通用しますね。のちの業界用語のような感じです。電話のように同時に喋ることはできないので、いわゆるトランシーバー方式で、こちらがしゃべると、どうぞと言い、向こうに話を振ります。ただ、見知らぬ人と会話するわけで基本当たり障りのないことしか喋れませんでした。

当時、毎週日曜日になると映画館に朝から夜まで詰めていたものです。そのうちにテレビ塔のそばにシネマAという500円で観ることができる名画座ができました。ある日予告編を見ていると、クロード・ルルーシュの パリのめぐり逢い の予告が流れました。その予告を見ただけで、やられてしまいました。その映像美と何といってもその音楽、主演は、イブ・モンタンで、グランプリの時の俳優だった。フランシス・レイ 音楽担当 ということを知りヤマハに行くと、都合良くフランシス・レイ曲集という譜面があったのでそれを買ってきました。ヤマハ音楽教室ではコードネームは教わらなかったが独学で何となくコードの成り立ちは理解していました。そして、フランシス・レイを通してほとんど初めてメジャーセブンスというコードの響きを知った。それは、癖になる響きでたまらなくいい音だった。ドミソに上のシを足すだけでパリの響きがした。衝撃的でした。しばらくその虜になりました。

あとはフランスつながりで、冒険者たち という映画の音楽を担当した、フランソワ・ド・ルーペ という人 も大したものだと思いました。FMで、紹介された時に知ったが、ほとんど音楽的な教育を受けたことなく独学で、すべて作り上げたとききました。だからなのか、意表をつく大胆な音楽的場面転換がたまらなくぞくぞくとさせられたのを覚えています。

中2の時、国語の先生に請われて演劇部の手伝いをしました。当時部員は女子だけだったので男子が2人助っ人で参加しました。無気力な村人をひとりひとり説得していく役でめちゃくちゃかっこよかったが東北が舞台だったので、やたら、だべさ、だべさと言っていたのがおかしかった。今まで人前でスピーチすることは多かったけど、役柄を演じるのは学芸会を除けば初めてで何か魂が感じるものがありました。中学入学以来ほとんど、女の子と話したことなかったが、その劇のおかげで、演劇部の子とはいろいろ話ししました。学年一つ上の先輩ですごくきれいな子がいたが、頼まれて自転車の後ろに乗せて2人乗りしたりしました。その時にはみんなと同じマイカーを持っていのです。のちにその先輩は卒業後女優を目指したときいたが、ちょっとあとで予想しない再会を果たすことになるのですが、その話はまたその時にしましょう。

たぶん時期的には前後した頃だと思うけど、試写会のはがきが当選し、スケアクロウ という映画を観に行きました。時間ギリギリに着いたら満席で結局座席の後ろの通路にひとり立つとちょうど上映が始まりました。アメリカの風の強い田舎道のシーンで始まった。いたく感動しました。一発でアル・パチーノの虜になった。

中学入学当時は、アラン・ドロンのファンで彼の新作も次々と公開されていた時期だったので、よく観に行きました。自然フランス映画を観ることが多かった。そんな中、目当ての映画とは違う、同時上映された映画で、シンデレラリバティという映画があった。この映画はアメリカ映画だが音楽もすごく良く感動しました。のちに高校の修学旅行の時、夜みんなで宿にいた時、テレビで映画をやっていました。付けっ放しにしていたが、あっ、これ観たことあるなっと思ったのが、シンデレラリバティだった。その時、5年ぶりくらいに思い出したのを覚えいます。