第9章 日記帳とグランプリ | 音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

昭和の時代の音楽を巡るいろいろな話をしましょう。

 

小学校時代の話をしましょう。幼稚園の時は問題児だった僕ですが、厳しい祖父のしつけでまったくリニューアルされ礼儀正しくて分別があっておとなしくて、でも結構ひょうきんな子供になっていました。なぜかクラスの人気者でいつも学級委員に選ばれていました。そして、うちでは一切勉強したことなかったのに、成績はいつもトップクラスでした。先生にもかわいがられました。今考えても自分の人生のピークは結局小学生時代だったのかなと思うくらいの黄金時代でした。女の子にもてたのも幼稚園や小学校の頃ぐらいのもんだなぁ。小1の時、自由作文の授業がありました。好きなことを書いてあとでクラスのみんなの前で発表します。するとひとりの女の子が、わたしは山崎君が大好きです。という作文を発表しだしました。いかにわたしが山崎君のことを好きかということを延々と聞かされました。僕自身はその子のこと特になんとも思ってなかったのですが嫌な気はしませんでした。1年2年はクラス替えなかったのですが、2年間ことあるたびにその子が僕に好きだと言いに来ました。3年になる時クラス替えがあってその子とは別クラスになりました。ある日ジャングルジムで遊んでいると久しぶりにその子が、山崎君〜と走って来ます。すると、わたしもう山崎君のこと、そんなに好きじゃなくなったの。新しい好きな子ができたの。〇〇君、と言われました。子供心になんかつまんないなって思ったのを覚えています。

昭和43年の元旦に親から日記帳をプレゼントされました。松坂屋のマークがついたハードカバーの中に分厚い日記帳が収納されていました。要するに完全に成人向けの立派な装丁のものでした。その日から毎日、日記を書く生活が始まりました。7歳の子供には結構大変な作業だったけど根気よく母が付き合ってくれてこれには今も感謝しています。本当につらくて書きたくない日もあったけど1年間やりきりました。なんとも言えない達成感があったし自分に自信を持ったし文章を書くことが全然苦でなくなりました。だから学校の作文の時間なんか楽しくてしかたがなかった。なんか急にスイッチが入るというか降りてくるというかそうゆうドーパミンが湧き出る感覚があって子供なりの快感を覚えたものでした。特にうちの学校はグループ日誌とか先生との交換日誌とかやたら書く宿題が多かったのを覚えています。そして、ほかに夢中になったのは読書です。とにかく片っ端から読みまくりました。学校の図書館や区の図書館のものを読みました。7歳の誕生日に祖父からA.A.ミルンのくまのプーさんをプレゼントされました。分厚い大人向けの装丁のもので漢字がいっぱいのものだった。その前年は、星の王子さま、だっけ。いずれも大人向けのものでした。だから小学校に入学する前からわからない漢字がいっぱい入った本を想像したり推理したり推測したりして読んでました。子供のくせに図書館で江戸川乱歩の人間椅子を借りて読んだりしていた。煽情的な挿絵が入っていてたまらなく興奮した。まったくもって嫌なマセガキだと自分でも思います。

小学校低学年の頃は学校では友達と遊んだけど放課後は大体ひとりで庭に秘密基地を作ってあそんだりしていました。1年生の時に父に連れられてジョン・フランケンハイマーのグランプリという映画を観に行きました。衝撃を受けました。実際のF1カーに車載カメラを搭載してモナコグランプリのコースを走行してそれがシーンシーンに挿入されるのです。その映像はものすごく恐怖を感じるものでした。父に促され数度席を移動して最前列で恐怖を味わったり中列で観たりいろいろしました。とにかく衝撃を受けました。初めて見る四輪むき出しの葉巻型フォーミュラ カーに夢中になりました。父にパンフレットとSP盤のレコードを買ってもらって帰りました。そのあとはずっとモーリス・ジャールのテーマ音楽をピアノで探り弾きしてパンフレットの写真にかぶりつき状態でした。朝登校する時もアスファルトの道路はサーキットに見え架空のレースを頭の中で組み立てていました。クラスメイトの間では怪獣ブームが巻き起こっていましたが僕は全然興味をもてなかった。夢中になったマンガは唯一マッハゴーゴーゴーでした。それが、前に書いたように3年の時の巨人の星で変わるのですが。それではまた次回。