第8章 巨人の星 うさぎ跳びと重いコンダラ | 音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

昭和の時代の音楽を巡るいろいろな話をしましょう。

 

小学3年の時、また自分の人生に大きな出来事がおきます。巨人の星のテレビ放送が始まったのです。強烈に影響を受けてしまいました。また都合よくというか悪くというか当時の小学校では野球部は5,6年生が入部資格を有していたのですが例外的に僕の通っていた陽明小学校では3年生から入部できたのです。それが、またひとつの地獄の入口だともつゆ知らず。指導教師は本来中学教師で名門野球部を長年指導してきた黒川先生。年間360日いつでも同じ体にフィットする黒のメッシュのようなトレーニングウェアを着る鬼教師、理由はわかりませんがたまたま数年小学校に赴任してきました。その教師のもと毎日朝練、放課後の練習としごかれました。今では信じられないことですが、体罰なんて当たり前の時代でした。ビンタされる時は歯をくいしばれ、と言われたし、長いノック用のバットで声が出るほどケツをたたかれました。よそ見をしているとボールが飛んでくるし、そしてつらいのが、うさぎ跳びです。今では体に悪影響を及ぼすとのことで禁止されていますが、当時はデフォルトだった。そして1番つらいのが水飲み厳禁ということ、夏の炎天下で絶対に水を飲ましてもらえなかった。やがて気持ち悪くなって景色が本当にセピア色に変わるのを経験しました。ふらふらするのを根性で耐え忍びました。間違えなく熱中症だったのです。でも当時の子供は本当に頑丈だった。誰も死者を出さずなんとかやっていたのです。今から考えると本当に出鱈目な時代でした。軍隊経験者もまだざらにいたしそうゆうものだと思っていたフシがあります。そんなこんなで野球漬けの毎日になったのでピアノの練習をする暇なんてないし、土曜日はカルチャーセンターに英語を習いに行っていたし、忙しかった。大変なのは練習を休ませてくださいと黒川先生に言いに行く時です。”明日、英語を習いに行くので野球部の練習休ませてください。”というと、決まって、日本語もろくすっぽ話せないのに何で英語をやるのだと嫌味を言われるのです。結局ヤマハは辞めることにしました。でも完全に 音楽から離れるのは寂しくて1年間、カルチャーセンターで社会人向けの作曲講座に通うことになりました。これは楽しかった。毎週、曲を作って行くと声楽科出身の男の先生が、それを目の前でピアノを弾きながら歌ってくれるのです。ザリガニとエビの戦い なんていうへんてこな内容の歌詞でも嫌な顔ひとつせず歌ってみせてくれるのです。少人数のグループレッスンでしたが、高齢のおばあちゃんがいたりでほのぼのとした雰囲気で、良かった。ギスギスとしたヤマハと正反対だった。毎週水曜日に通っていましたがある日行くと教室がざわついていました。あの三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自決した日でした。忘れられない出来事です。また次回に続きます。