第10章 小学生時代、楽しいことが多すぎて寝てるひまは無い | 音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

昭和の時代の音楽を巡るいろいろな話をしましょう。

 

小学生時代の話の続きです。3年で野球部に入って忙しくなりました。夏の陽の長い日に練習が終わると校舎の大時計が19時20分を指していたのを覚えています。それから用具をかたして帰途に着くわけです。晩御飯を食べて風呂に入って、としていると結構いい時間になって家族はみんな寝静まっています。でもそれから山ほど出た宿題をやっつけなければならない。深夜になって眠くて眠くてしょうがなくなると掛け布団の上に倒れこんで20分ほど仮眠をとりました。目覚ましとか持ってなかったのによく起きられたものだと思います。そしてまた気合いで作業します。祖父の厳しい教えを受けていたのでリタイアするなんて選択肢はなかった。何とか毎日やり遂げました。でもそのあと好きな本とか読み出すと止まらなくなります。結局毎日深い時間まで起きている毎日でした。途中何度も父がトイレに起きてきてその度に早く寝ろよと怒られました。

毎週日曜YMCAでマラソンの会があって友達に誘われ参加するようになりました。朝5時集合でうちから結構離れたところに通いました。終わると50円でおしるこがもらえるので結構それも目当てでした。みんなマイ自転車でやってくるのですがうちは長いこと自転車を買ってもらえなかったので歩きか走りで向かいました。なのでいよいよ寝てる暇なんて無い生活になりました。そのあと遊びに行くのもみんなは自転車で僕は走ってついていく。そのおかげで知らず知らずのうちに足がめちゃくちゃ早くなった。学校で1番だったので陸上大会の時は野球部から借り出されてリレーの選手を努めました。でも今思い出してもあの当時の少年向け自転車って何だったんだろう?ものすごい電飾の派手なウインカーがついていました。暴走族も負ける派手派手しさ。いつの時代からすっかり姿を消しました。Time Machineで今に持ってきてもめちゃくちゃインパクトあると思うんだけど。スピードメーターもデフォルトで着いていたし。やがて親がどっかで出前用のごつい中古の自転車を見つけてきたけど、さすがにそれには乗らなかった。なのでナチュラルランニングトレーニング生活は続きました。名古屋に来てから父は職探しをしていましたがなかなかみつかりませんでした。そんなこんなで近所にあった電気製作所の下請けの内職を家族総出ですることになりました。基盤に抵抗やダイオードやコンデンサーを差す仕事です。基盤ひとつで2円くらいだったかな。それを納品するとハンダ付けされてラジオになるのです。やがて余ったパーツをもらい人生初のゲルマニウムラジオを作りました。これにはわくわくさせられました。夜布団の中でアンテナがわりに引き回した銅線をつまむと身体がアンテナがわりになってAMラジオを受信するのです。いつも寝る時はその線を握る生活がいっとき続きました。それはのちの電気好きにつながり小6の時アマチュア無線の存在を知り親に内緒で国家資格試験の参考書を手に入れフレミングの左手の法則とかを独学で勉強し始めました。その時アマチュア無線の最年少合格者を調べたのですがタッチの差で遅くて、試験のタイミングの問題もあって結局中学に入ってから資格をとりました。

小学生の頃はなぜか先生にかわいがられた。4年生の時の担任は、山崎の頭の中は複雑でよう分からん、と言いながら、何をやっても認めてくれた。夏休みの自由研究をサボって二学期の始業式が始まってしまって焦って、一晩で、うちにたまたまあった捨てる予定の古い木製の風呂の蓋の上にジオラマを作って持って行った時も意欲最高賞という賞をくれた。とにかくでっかいもので目くらませしようという子供の悪巧みだったのですが…  いわゆる趣味人の先生でフルートを吹き、独自の判断でクラス全員に横笛を買わせ授業で教えてたりしてました。学年が進み担任も変わった後で休みの日に一回だけ招待されて何人かでその先生のお宅に遊びに行ったことがあります。そこで初めてダーツというものを経験しました。みんなで一投ずつすることになったのですがなぜか僕が投げると初めてなのに的の中心に命中したのを覚えています。最近で言うカフェバーのようなあつらえのお洒落なお宅でした。そして5年の時の担任はなぜか生徒の名前を呼ぶ時みんなを苗字で呼ぶのに僕のことだけずっと下の名前で呼んでいました。結局それは1年間続きました。あれは一体どういうことだったんだろう?今でも謎です。次回に続きます。