第3章 ミニカーと記憶と夢 | 音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

昭和の時代の音楽を巡るいろいろな話をしましょう。


 

今回は僕が生まれた頃の話をしましょう。

1960年代に千葉県船橋市で生を受けました。

父親が車マニアで毎月のように当時は珍しかった外車を乗り換えるような人だったので自然と自動車に興味を持ちました。言葉を覚えるか覚えないかの頃には街を通り過ぎる車の名前を全部言い当てていたみたいです。好奇心が人一倍強いので、あれ何、あれ何と、とにかく尋ねまくっていた。親も初めての子だったのでそれに根気よく付き合ってくれた。2、3歳の頃いきなり絵本の  長靴をはいた猫  を大きな声で読みだしたのでびっくりしたと言います。何のことはない。好きな物語でしょっちゅう読んでもらっていたので、暗記してしまって、読んでるふりをしていただけでしたが。車が好きなのでおもちゃは、ミニカーが定番。たまには飛行機とか違うものを買おうね、と言われおもちゃ屋に向かうのですが結局ミニカーを買って帰ってくることになります。ある日いつも行く銀座の不二家でマイクロバスのおもちゃを買ってもらいました。これにはおもしろい話があって、後日遊びに来た近所の子が、目を丸くして、おばちゃん、お菓子が出てきたー 、という事件がありました。バスはお菓子を入れたケースだったのです。それはそうですよね。不二家なんですから。でも、親も、中にお菓子が入った商品だということに気がつかなかったのです。昭和30年代の船橋市は船橋ヘルスセンターが有名でのどかなところでした。まあ、当時の日本は全国的にどこものどかだったのですが。遊びは足こぎ式ゴーカートを運転したり、庭に設置したブランコに乗ったり、緑や土もいっぱいだったので、たまには口に入れてみたりして… そして3歳になる時に、三年保育で幼稚園に通いだしました。この辺でちょっと人生に変化がおきます。いわゆる社会生活というやつですね。それまですべて自分のペースで物事を済ませていたので、人に合わせてやらなければならないということが最初のうちわからなかった。結果、年中母に呼び出しがかかります。ある日、保母さんにこの子は将来人の上に立つような人間にはなれませんよ、と言われたみたいで、結構腹をたてていました。何で自分より年下の子供を産んだこともない子にそんなことを言われなければならないの、と怒っていたのを覚えています。今これを書いているとまたいろいろ記憶がよみがえってくるのですが、記憶に関して以前悩んだことがありました。いろいろな本を読むと人の記憶は3,4歳からしか残らないと書いてあるのです。でも、僕の場合は明らかに3歳になる前の記憶がいっぱいある。幼稚園初登園の日バスに乗ったのも覚えていますが、4月生まれの僕は、3歳になる直前だったのです。自分の記憶はフェイクなんじゃないかと悩んだ時期もありました。父が8mmフィルムで映像を残していたので、それを見てあとから作り上げたのではないかと。でも明らかに映像に残ってるものじゃない鮮明な映像記憶がある。それも幼稚園に通い出す以前のものがふんだんに。常識みたいなものは、あくまで多数意見のつくりあげたものであって例外は間違いなくあるのではないでしょうか?同じようなことで夜見る夢に関して子供の頃悩んだことがありました。ある本を読むと夢はすべからくモノクロだと書いてあったのです。でもぬけるような青空に真紅のボディの車の夢を見たことがあったので納得いきませんでした。もっとも、夢に関しては今では、カラー、モノクロ 両方あるというのが常識になってるみたいです。ちょっと長くなったので次回に続きます。