第4章 オリーブ、そして、ピアノに出会う | 音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

音楽をめぐる冒険(いかにして僕は音楽のとりことなったのか)

昭和の時代の音楽を巡るいろいろな話をしましょう。


 

幼稚園時代の話の続きです。青いブリキの弁当箱を毎日持って通園しました。母が毎日オリーブを一個そこに入れてくれていたのですが、保母さんの間で、あれは一体何だ?というのが、もっぱらの話題となりました。ある日しびれを切らしたひとりの保母さんが僕のオリーブをペロッと舐めて、”あっ、これは梅だ、” と言いました。のどかな時代ですね。集団生活が苦手な僕でしたが、保母さんのペットみたいなところもありました。幼稚園の遠足の時の話です。ひとしきり遊んで、さて帰りましょうと、みんなでバスに向かって歩いている時に、ひとりの保母さんが僕の写真を撮りだしたのです。”洋ちゃん、足あげてっ” と言われたので足をあげてポーズして、すると、”もっと高く足あげて” と言われて、また、必死にポーズして、と、するとふと気がつくと不思議なことにあたりは誰もいなく僕ひとりになっていたのです。あの保母さんは何で一緒に連れて行ってくれなかったんだろう…  やっとのことで、バスを見つけるともう扉は閉まっていました。パニックになった僕はなぜかバスの後ろに向かいバンパーを握りました。ここを握ってバスと一緒に行けば無事帰れると思ったのですが…  でも今から考えても本当に危険なことですよね。やがて、運転手か、保母さんが迎えに来てくれてバスに乗せられましたが。いったいどういうことだったのだろう? 園児がひとりいないことに気がつかなかったのだろうか? それともいないのはわかっていたが、お仕置きのつもりでしばらく放置したのか? 後ろのバンパーを握っていることにすぐ気づいたのだのだろうか?謎がいっぱいです。そもそもあの保母さんがみんなバスに向かって歩いてる時にいきなり写真を撮り出して遅れてしまったというのに。Time Machineがあるなら、そこに戻って真実が知りたい。あるいは今の時代のようにそこら中でいろいろな映像が保存されているような時代だったらその現場の映像が見たいものです。幼稚園当時の記憶ではほかに、ライオンズクラブのパーティによく行って、ごろごろでんぐり返ししていたこととか、ホテルオークラにしょっちゅう泊まりに行っていたこととか、富士屋ホテルのゆで卵とバヤリースが入った弁当のこととか、いろいろ思い出します。そして、3歳の時に、いよいよピアノを習うことになりました。母が子供の頃バレーやピアノを習いたかったのに、父親に反対されて一切許されなかったので、子供が産まれたら男の子だったらピアノ、女の子だったらバレー、と決めていたみたいです。でも後年本当に最近になって、母と旅行してL.A.を歩いていた時、ひとりのちっちゃい男の子が一生懸命にのりのりで踊っているのに出くわしました。微笑ましく見ていると、あなたの子供の頃にそっくりだわ、と言うのです。本当に? と言うと、そうよ、そっくり。だからこの子は本当に音楽が好きなんだなぁ と思って、ピアノを習わせることにしたのよ、と言われたのです。意外にも初めて聞く話でした。さて、うちに象牙の鍵盤のアップライトピアノがやってきてピアノのレッスンが始まりました。でもそれは予想と違って全然おもしろいものではなかったのです。僕の方もレッスン先でピアノの鍵盤の上をミニカー走らせたりする始末で、お願いだから一週間に5分でいいから練習してね、と懇願されました。そうこうするうちに、急に5歳になる直前に名古屋に引っ越しすることになり、また人生が一変するのですが、それは次回に。