釜山市内にある日本式の石垣 子城台(釜山鎮支城) | あなたの知らない韓国 ー歴史、文化、旅ー

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    こんにちは。

    皆さんいかがお過ごしでしょうか。

 

    以前に文禄の役の激戦地のひとつである釜山鎮城についてお伝えしました。今回は子城台と呼ばれる釜山鎮城の支城についてお知らせします。

 

 地下鉄佐川駅から歩いて10分程度。以前に紹介しました朝鮮通信使歴史館は、この城の隣接地にあります。

 

 ここも文禄・慶長の役の折、日本の城郭(倭城)として利用されたところであり、日本式の石垣が残っています。

 

   現存する城は文禄の役の際、1593年に日本軍によって築かれた釜山鎮城の支城ですが、それ以前にも朝鮮の城があった可能性もあります。

 

    子城台というのは鎮城が母城であり、その子の城という意味として使われているようです。

 

    乱終結後に再び手が加えられ、やはり釜山鎮支城として朝鮮側の城として使われましたが、植民地時代に城は改変され、周囲は埋め立てられたので往時とは様相が変わっています。

 

 

 

 

    西門です。堂々とした構えでこれより内側がいよいよ城内となります。

 

 

 

 

    案内図です。都心部にありながら緑豊かな空間で、市民のオアシスになっています。

 

 

 

 

     城内には日本式の石垣も残っています。朝鮮の城の石垣は緩やかに湾曲しながら四周するのが基本です。ここの石垣は直線的に連続し、直角に曲がるという日本的な特徴を備えています。

 

 

 

 

   千萬里将軍の記念碑です。千将軍と秀吉の侵略の折に朝鮮を助けた明の千萬里将軍のことです。数々の戦功をたて、特に1597年の蔚山城の戦闘では籠城する加藤清正軍を相手によく戦ったとのこと。戦後は明には帰らずに、そのまま朝鮮に帰化し、朝廷で重く用いられたそうです。その功績を記念するために建てられた記念日です。

 

 

 

 

    これは本丸地域に復元された鎮南台です。正面五間、側面4間、2層で、鎮南とは本来南門のことを意味します。ここでは将軍の指揮所として利用されており、子城台を象徴する存在になっています。

 

 

  

 

 

 

  いかがでしたか。釜山市内にありながら、緑に恵まれたオアシスのような存在です。

 

    ここは私が最初の訪韓の折に最初に立ち寄ったところです。最初の訪韓で何故こんなマニアックなところに立ち寄ったかと言うと、旅行ガイドの『地球の歩き方』に倭城として紹介されていたからなのです。まだ言葉も良く分からない時分、なんとかたどり着き、日本式の石垣を目撃した意外性は今も忘れられません。

 

   皆さんも観光の間に、時間旅行を楽しみのはいかがでしょうか。意外な発見があるかも。