「話が通じる」という幸せ  其の二 | マタのブログ

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サッカー・・・やら親爺の独り言

人間の本能は「個としての生存本能」と

「子孫を残すという生殖本能」に尽きると思います。

 

 

 

生存本能の「エサの確保=金を稼ぐこと」により

生産性の工夫だとか、他人からの奪取だとか

そこを起点に無限に拡がっていきます。我欲の色々です。

 

生殖本能の「最適な相手を確保すること」により

恋愛における優位性への工夫だとか、強引な奪取だとか

権力争いだとか、これも無限に拡がっていきます。

 

 

 

 

 

当然、若いうちはこれらにより「欲」が無限にあって

それが様々なことに挑戦するエネルギーでもあります。

 

じゃあ、子育てもおおよそ無事に終え、その時点で

経済的におおよそ不安もない、、となると・・・

 

人間の幸せって何だろう、、と深く考えたりします。

 

 

 

 

 

我々の世代で、深く思考するタイプの人たちは

おそらくみんなそんなような状況だろうと思います。

 

 

 

個人的には・・・

 

人生の残り時間での幸せは、やはりまず安寧であって

(無用なトラブルに巻き込まれる心配がなく、安心)

かつ、自分がこの世に存在していることに意味を感じ

その上で心地よいと感じることがある、ということかと。

 

 

 

自己の存在意義については、多くの人が同様でしょうが

自分の能力が発揮されていて、世の中に役に立っている、

あるいは自分一人であっても、思うように出来ている

(ポツンと一軒家の独り者が楽しんでいるように)

というようなことだろうと思います。

 

他人から感謝されることが本当にうれしかったりします。

 

 

 

その上で、、昨日書いたように

運よく「話が通じる人」と出会えて、おしゃべりできると

至福の時間である、しみじみ幸せだ、と感じられます。

 

 

 

あるいは、思考の深い人は大抵「愛」を希求するし

そもそも好奇心が強くて、ある意味変態であるので

年齢にかかわりなく、嗜好の合う異性の相手がいると

生きていることがさらに素敵になるハズです。

 

また、「ノーライフ、ノーミュージック」だったり

「ノーライフ、ノースポーツ」だったり

「ノーライフ、ノーシンキング」だったり

個々の嗜好がうまく満たされると、これも幸せでしょう。

 

 

 

 

 

ただ、現実はなかなかうまくいきません。

 

 

 

 

 

私の場合で言えば、姉(〇ノ〇ヨ〇コ)さえいなければ

おそらく、かなり平安な老後を暮らせていたと思います。

 

 

 

三人の息子には、進学の際には厳しくしましたが

本人たちの実力に見合った進学をし、就活の後に

おのおのの学歴に対し相応の職を得ています。

(長男はすでに結婚も済ませているようだし・・)

 

元妻とは、そもそも全く違う人種のような組合せでしたが

それでもしばしば出かけ、家事を教えそれを分担し、

農作業もほとんどは協働し、毎日多少なりとも

色々な意味で潤う生活をしていたのです。

 

 

 

姉に洗脳され、本当にひどいことをしてきたものです。

 

「人間が、どうしてこんなにひどいことが出来るのか?」

という、私には全く理解も想像もできないことを

長期間にわたり続けていた、ということは

非常に残念なことではありますが、やはり知能における

致命的な問題があった、ということだと思われます。

(この点は、私のように想像もできない人たちは多いハズ)

 

 

 

 

 

私と同じような生まれ育ち、学歴、職歴の人で

不運にも、老いて独居の身に甘んじている人がいるならば

お話しをしてみたいものです。

 

おそらく共感する部分も多いだろうし

初めて知る知恵や工夫もけっこうあるだろうし

そもそも、おしゃべりができるなら

それだけでも生きる力にきっとなるだろうと感じます。

 

 

 

 

 

不運にも、頭のおかしい姉を持ってしまった・・・

 

ということに尽きます。

(親父の人生の間の気持ちが手に取るように分かります)

 

 

 

 

 

 

 

 

幸運にも幸せな老後の人たちもたくさんいるでしょうが

不運にも自分に全く落ち度がないのに

災害や事故で大切な家族を失ってしまった人たちもいます。

 

少なくとも、つらいことはつらい、とそのまま受け入れて

自然のままに過ごしていきたいものです。