板本洋子の日常茶飯事 -5ページ目

秋田の気合い

7月末、秋田市にある「結婚支援センター」を訪ねた。

県の結婚応援事業で、4月から、登録制で個人的紹介をする

マッチングシステムを導入。研修を重ねた14人のスタッフが

県内3カ所のセンターで相談にのる。わずか3ヶ月で500人が登録

したというから、気合いの入った事業だ。


わたしの感じでは、そのシステム、個人情報の保護、

登録者の目線での、目配り、気配りなどにおいて

先進県といえるかも。


帰り、男鹿の「なまはげ館」に立ち寄る。今も大晦日に

行われる民俗行事の「なまはげ体験」をした。

神の化身として、家々を訪ね、悪事をこらしめ

正義を訓戒を伝える・・それにしても気合いのはいった、

「なまはげ」に大声で「嫁はまじめにやってるか!!」

と襲いかかられ、マジ、怖かった。


これでは、嫁に行かなくなるのでは・・と心配したら、

今、実際は、若夫婦から「来なくていい」と断られる

ことが多くなったらしい。


「なまはげ」も、大晦日は苦労してるんだ~

あ~いそがしかった!

しばらくブログの世界に入れなかった。。いそがしくて。。


マスコミで、「震災後、結婚希望者が増えた」という趣旨

の報道がなされていた。

他人事?と思っていたら、本当だと実感!!


相談所への入会者が増えてきたのだ。しかも女性が多い。

しかも、熟年層も。。。聞けば「震災で不安になった」という方も

中にはいらっしゃるが、そこまで意識しないまでも、昨今の日本の状況に

背中を押された。親がまた、しつこく結婚しろと心配し始まったという

理由で、重い腰を上げたという方もいる。


ただ、このブログでは初公表ですが、日本青年館結婚相談所

(青年館は存在してます)が、11月末で閉所になるのです!!


それを承知のうえで、残された日々を婚活がんばりたいという方々が

多いのです。なんあだか、会員も我らも焦る毎日です。




どんだけ時は流れたか。。

両親が、我が相談所で結婚したという娘が入会

してきた。明るい女性で27歳だという。

青年館が結婚相談所をはじめたのは1980年。

その3~4年間に出会い、結婚して産まれた子が来たのだ。

「両親はとても仲良し夫婦です」に安堵。


長野県川上村との出会い事業も今年で26回目。

新しい役場担当者と、結婚相談員が打ち合わせに

やってきた。

事業の経過を説明していたら、課長が、当初の事業内容は

わかっているという。「なぜ」と聞いたら、「当時、独身で参加していたから」

というお返事。ここでの結婚ではなかったが、もう子どもも自立したという。


2代目が結婚期を迎えるほど、なが~~い時の流れと、

自分がどんだけ年齢を重ねたか、、しみじみ実感させられた、、わい。

女性たちの6.11シンポ

原発事故に翻弄される、飯舘村の女性たちの前夜の思いを胸に

男女共同参画の道を歩んだ村のづくりを報告のため

6月11日「災害・復興と男女共同参画」シンポに参加した。



このシンポは堂本暁子、原ひろ子氏を先頭に多くの女性

のボランテァで準備され、東日本大震災を女性の目で検証、

問題提起する緊急会議として開かれた。

会場の日本学術会議には300名を超える参加者が全国から集結。

女性団体、さまざまな専門分野の女性研究者、被災地の女性など

16人が、短時間で多様な視点で災害時の女性の課題を報告。

その、無駄のないプレゼン。パワポの効果的使い方。説得力。

論理性にまず感動!!

前置きの長い話をする男性(だけではないが)をみてきたせいか、

「女たちの専門的で端的で核心をついだ発言」

おなじ女性として誇りすら感じたほど。


災害は女性の犠牲者が男性より圧倒的に多いこと。女性の社会的

地位が高い国ほど犠牲者の男女差が低いこと。避難所では女性

のだけでなく、子どものジェンダーへの配慮も必要、など

多くの報告に息をのむ。災害を多面的視点でみることの

必要性を知らされた。


この集会はその場で「女性たちの提言」にまとめられ、

3日後の昨日、この内容を受け、女性議員が国会で

「復興には男女共同参画の視点は不可欠」と

復興会議に女性を増やす約束を総理にとりつけた。

すばやい「女性たちの行動」にすっきり。


義援金の配分も女性にまかせればもっと早いのに。。

あ~無駄のない、貴重な1日だった。



原発被害の飯舘村の女性と・・

災害支援する側にいるのに、されてしまった ^^;


かつて、農村の「若妻の翼」という事業で一緒にユーロッパを旅した

「飯舘村」の女性11人が ある支援をうけオペラ鑑賞で上京。

わたしも誘われて参加できてしまった。恐縮。

地に足のついた古妻たちは「生涯1度の経験」だと

オペラにつかの間不安な日常から解放され楽しんだ。


その夜、女性たちから放射能汚染で全村避難となった

やりきれない気持ちを聞いた。気がつけば夜中2時。

放射能に逃げ惑い、政府の情報に振り回され、

大勢のマスコミに追われ、生活のメドも帰村のメドもつかず、

笑と涙の報告だった。

私だけが聞いているなんて罪だと思えてきたぐらい。

テレビや各種報道で知る状況とは違うのだ!


彼女たちの危機意識と逃げられない事情、逃げても

一家離散、仕事を失い、先の見えない人生を どこかで

社会に知らせなければ。。。。。





グッ!ときた熊本

熊本市にある崇城大学に招かれ、学生・社会人に

「結婚から社会がみえる」の講義をした。最後にいくつか質問あり。

男子学生からは

「先生は結婚してるんですか」と聞かれ

「その質問の意味は?」と聞き返すと、

「先生は美人なので、聞いてみたかった」と告白的回答。

思わグッときた。「夫と別れるまで待って」と哀願したら

300人に学生の爆笑にもめげず彼はマジ「はい!」。

グッと×2。


翌日、山鹿市で、高校生による「民家の甲子園」という

地域の古民家を写真とプレゼンで発表する熊本大会の

審査員に招かれた。発表もすばらしかったが、

女子高校生による「おてもやん」「灯篭おどり」は絶品。

上海万博で披露しただけあって、プロとみまがうすばらしさ。

乙女の色香のグッときた。


その会場が、国指定重要文化財で100年の歴史をもつ「八千代座」。

この小屋を愛する玉三郎の2度追っかけしたぐらい好きな小屋。

ここに半日身をおけたことに、グッときた。


3歳ぐらい若がえって帰京。いい旅だ~~~った。

長い時間を経たお話 その2

1991年長、崎県島原の普賢岳が噴火した。


火砕流に43名が巻き込まれ、1万人が避難した大惨事。、


その1年後。島原の農業委員会からの

「農村の結婚問題」に関する講演依頼に

今度は息を呑んだ。(そんなお話をする時期か・・と)


気後れしつつも現地を訪れ見たものは。

一方で山から海にかけての火砕流に呑みこまれた

ままの家々の残酷な光景。そして、そのまた一方で

その灰の中を耕し、野菜を植えはじめた畑の光景に驚いた。


「百姓はそれしかできないから、この土地から離れないのさ」

「農作物が実る喜びが、ここで生きる喜び」

「農家の嫁問題を考えることも、ここで生きる日常」

講演会はわたしの取材会場になり、

農業者の強さに打たれ励まされて帰ってきた。


そのことを思い起こすと、今回の東北大震災

で放射能問題に翻弄され、農作物の作付けを禁止され

農民はの悲しみの大きさは計り知れない。。。

「農村の結婚問題」に集まれる平和が

早く来ますように。。







長い時間を経たお話 その1

1981年頃から、三宅島の男性と首都圏や関西の女性との

「出会いイベント」を開催。三宅村の依頼で青年館が企画した

事業だ。三宅島は紺碧の海に囲まれた緑深い 本当に美しい島だ。


1983年、3回目の開催を終わったその年、三宅島は噴火した。

大きなショックのなか参加女性が義援金を送ったことがあった。

このイベントで確か2~3人の女性が嫁いでいる。

その後、村はこのイベントを辞めた。


2000年、三宅島は さらに大きな噴火をし、全島避難となった。

避難解除がでたのは2005年。島民はふるさとに帰り、

その、翌年、2006年再び、三宅村から「出会い事業」開催の

依頼をうけた。

まだ、雄山からは煙があがり、毒ガスマスクを持ち、女性たちと

上陸した。島民あげて復興に取り組み、参加男性たちは

郷土芸能や、自作の唄で、島のすばらしさ、ここがどこより

好きなふるさとだと謳いあげ、参加女性を感動がさせた


1981年に会った男性たちは、みんな おっさんになり、

その息子たちが参加者になっていた。父親より、

さらにいい男に進化していて、頼もしかった。

わたしも、おばさんになっていることを、おっさんに会って

気がついた。


人は、ふるさとが何よりの宝物であることを知らされたイベントだった。

飯舘村の涙

福島県飯舘村の管野村長の涙をテレビで知る。

村民も同じ涙と怒りの中にいることを痛いほど感じる。

村長をはじめ、知り合いに電話もできず、電話した

ところで、何の意味ももたない。。。

テレビニュースで、わたしも一緒に泣かされる毎日。。


農業の作付けをする時期なのに、新年度事業が始まる

時だったのに、放射能危険で住民全員が「計画避難」とは。。。


震災被害の悲劇からの復興が始まろうとする一方で

飯舘は、すべての出口が閉ざされたように見えるが、、、


今週の日曜は、親戚や知人のいる茨城を訪ねた。

壊れた屋根のブルーシートや、海岸線や港の崩壊場所に

春の日差しがさして、希望を感じるものの

みんなの話題はすぐ「放射能恐怖」へ移行し、

不安なため息が漏れる。


やりきれない春だ。


飯舘村へ愛を込めて

今、原発の放射能危機の渦中で揺れ動く福島県飯舘村。


この村と私のお付き合いは、もう30年に及ぶ。

公民館での「地域の発展と結婚」座学に始まり、

「若妻の翼」では、村の女性と夢のヨーロッパへ。

パリで「これからの農村女性の生き方」を語り、

ドイツビールで家族を語り、みんな飯舘で生きることに

確信を得た。帰国後、女性たちは、村での

新たな生き方に挑戦する行動に。その動き

と主張に私も育てられ、力を得た。


いつも、新たな時代の風を取り入れて歩く飯舘村。

気がつけば、わたしはここに数十回も訪れていた。

飲んで語った暖かさ、おもしろさが飯舘を訪ねる

回数を増やしていった。


その長いお付き合いのお返しもあって、

昨年は婚活事業に協力をさせてもらい、

男女の交流や飯舘の魅力を発見を楽しんだ。

それは、今年度も続けるはず。。だったけど。。


今、放射能という敵のなかで

みんなが尋常じゃない不安と困惑と戸惑いと

行き場のない怒りのなかにあることを、

わたしは東京で共有するものの、無力。


それでも、村に春の花が咲き、一つの新たな恋が

生まれていることに希望と勇気を持を持ちたいね。