ときめきの髪飾り② | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

細見美術館で見た「ときめきの髪飾り」の続きです。以下の文章は展示パネルから引用しました。

 

 

  垂髪

 

垂髪すいはつ》平安~桃山時代

平安時代の貴族の女性は、自然の垂れ髪が主で、結髪けっぱつはしなかった。遣唐使の廃止により、大陸との国交が絶えた10世紀以降、日本独自の国風文化が花開いた。当時の絵巻や物語では、丈なす黒髪が女性美の大切な条件と考えられてきた。平安時代から桃山時代までの約700年間、女性は髪を結わない「無結髪時代」であった。

 

 

下げ髪さげがみ》桃山~江戸時代

ポニーテールの名で親しまれている現代の髪型と同型である。同じ髪を束ねる場合でも、長い垂髪に慣れていた中世の頃は、縛る位置が背中や肩あたりで、首筋や耳が隠れていた。しかし、近世初頭、桃山時代になると、後頭部で束ねるようになり、首筋と耳が出るようになった。このように、顔を全部あらわに見せ、明るい印象を与える垂髪の登場は、江戸時代以降の、女性の髪型の黄金時代の幕開けである。

 

 

  結髪(基本編)

 

まず始めに、結髪の部位について。

まげは、男性が冠の下に結ったもとどりをかたどったもの。髪を束ねたり結ったりして、頭頂に作る。

たぼは、襟足に沿って、背中に張り出した部分。「つと」ともいう。

びんは、左右側面の部分。

 

 

唐輪髷からわまげ》桃山~江戸初期

平安時代から鎌倉・室町時代と、女性は髪を結わずに自然に長く垂らした垂髪であった。この唐輪髷は、近世初頭、女性に、活動的で明るい結髪が定着し始めた頃の姿である。後頭部にまとめた髪を二分して輪をつくり、毛先を根元に巻きつけ、前髪を左右に分けたもので、野性味をもつ形である。これは、男髷の模倣から始まるといわれ、当時、往来が頻繁であった中国の、唐子髷からこまげに似ているのでこの名がある。

 

 

元禄げんろく島田髷しまだまげ》江戸前期

元禄期を中心に、17世紀後半から18世紀初め頃に流行した。分化や発達を繰り返しながら明治時代まで広く愛された島田髷系統の基礎的な髪型である。この時期はびん(頭の横、耳の上の部分)よりもたぼ(後ろ、襟足部分)が強調され、長く突出したそりのある形が特徴である。髪飾りも、一本足のシンプルなかんざしが用いられ、幅広い平元結が髷の中央を飾っている。

 

 

櫛巻くしまき》江戸後期

江戸中期以降、女性の髪形は、次第に華美で技巧的で複雑な形になるが、これらの約束ごとをはずし、略装として生まれた。宝暦(1751~64)頃、浅草寺内のお福茶屋の湊屋お六という女性が結い始め、広まったといわれる。芸妓や商家の女性の平常髪、洗い髪などに結われた。若い女性は櫛の棟を上に、根を高く、年増は櫛の歯の上に、根は低く結った。

 

 

  結髪(応用編)

 

春信風はるのぶふう島田髷しまだまげ》江戸中期

鈴木春信(1725~70)の描いた浮世絵美人画をもとに結われた髷。髷はふっくらと厚みのある形が好まれ、前髪は立てずに後ろに引いているのが特徴。この時期、たぼが美しい曲線を描いてつくられ、かもめの舞い飛ぶ姿に似ているところから、「かもめたぼ」と呼ばれた。

 

 

奴島田やっこしまだ》江戸後期

根を高く結い上げた島田髷で、高島田と同系統である。太い元結で結び、真ん中にいち止めをとめるのが特徴。黒船忠右衛門の芝居に登場する奴の小万のモデル、木津屋の養女お雪(1728~1804)からくるといわれる。15、6のお雪は四天王寺参詣の途中、悪者に襲われたが、かえってこれを打ちこらしたので、有名になった。彼女の闊達さを反映した派手な髪形だったらしく、まず遊女風俗となり、後、江戸末期には娘の髪形として一般化した。

 

 

丸髷まるまげ(歌磨風うたまろふう)》江戸後期

丸髷は、勝山髷と同系統で、初め未婚者も結ったが、後に、既婚者の代表的な髪形となる。楕円形の型を入れ、髷を丸く形づくることからこの名がある。これは、喜多川歌麿(1753~1806)の美人画によく描かれている髪型で、非常に大きな髷と、横に張った鬢(顔の横、耳の上の部分)が特徴で、主に遊女が結った。このような鬢は、この時期に流行したもので、形が灯籠に似ていることから「灯籠鬢とうろうびん」と呼ばれ、半月形の「鬢張り」を用いて横に張らせている。

 

 

《つぶいち》江戸後期

貴族階級の、嫁入り前の女性が結う島田髷。一般女性の島田髷との違いは、たぼが中央から左右に分かれ、平たい板状につくられている。これは、貴族階級だけに見られる特徴で、関西では葵の形にたとえ「葵づと」、江戸では椎茸にたとえ「椎茸たぼ」と呼んだ。ちなみに女髷の首筋の髪を、関西は「つと」、関東では「たぼ」という。

 

 

三つ輪髷みつわまげ》江戸後期

丸髷の変形で、髷の軸が三つできることからこの名がある。同じく丸髷の変形である「おさ舟(江戸風)」に類似しているが、中央が小さく、両脇の輪が張っていて、中央が大きい「おさ舟」とは逆である。丸髷が既婚女性のものであるのに対し、三つ輪髷は、お妾、囲い者といった人の髪型である。

 

 

《ばいまげ》江戸後期

1本のこうがい、またはかんざしを立て、それに髪を縦に巻き付けた、洗い髪風のこざっぱりとした髪型である。巻貝の一種であるばい貝の形に似ているので、この名がある。びん(顔の横、耳の上の部分)やたぼ(後ろ、襟足部分)を引きつめたものが最初の形であったと考えられるが、これは18世紀末、鬢を横に張らせた「灯籠鬢とうろうびん」が流行した頃のもので、技巧的な髪とシンプルに巻き上げられた髷との調和の美が、いかにも江戸風である。粋筋の女性に好まれた。

 

 

先笄さっこう》江戸後期~明治時代

京風の髪形で、主に町家の、懐妊前の若奥様などに、明治末期頃まで結われていた。手絡てがらの色は、年齢により、桃色、水色、藤色などがある。まげの上前部より後へ「はし」がかかり、その先は、動かぬよう、いち止めで止められている。かんざしこうがい、前挿し、いち止めは、一揃えになったものを用いる。

 

 

  結髪(職業編)

 

禿かむろ》江戸後期~明治時代

禿は、位の高い遊女に仕えて見習いをする、6才から13才位の少女のこと。髪はまげの根の高い奴島田で、根の部分は色つきの平元結ひらもっといで巻き、前髪を赤縮緬ちりめん布で結ぶ。髷の毛を挟んだ三段重ねの絞り布、金・銀箔を散らした平元結、はね元結もっといなど、華美な飾りがいかにも吉原遊郭を象徴している。

 

 

吉原花魁横兵庫よしわらおいらんよこひょうご》江戸後期

京都島原の「太夫たゆう」に対し、江戸吉原は「花魁」と呼ばれる上級の遊女が結ったものである。横兵庫は、江戸中期は、アンバランスに片方が一方のまげより大きかったが、次第に左右対称になり、蝶結びの形をとるようになった。

 

 

島原太夫横兵庫しまばらたゆうよこひょうご》江戸後期

京都・島原の「太夫たゆう」と呼ばれる上級の遊女が結ったもの。サンゴの飾りのついた長いびらびらかんざしは、「長崎」という。くしは三枚櫛である。髪が埋もれる程の髪飾りをつけ、日本髪の中で最も豪華なものといえる。

 

 

舞妓まいこふく福髷ふくまげ)》現代

舞妓が割忍わりしのぶの次に結う髪形で、俗に「お福」と呼ばれている。手絡てがらは、あらかじめ結んでおいたものを、あとから針と元結もっといでつける。現在では、満18才になると結い替える。

 

 

舞妓勝山まいこかつやま》現代

京都祇園、先斗町ぽんとちょうの舞妓の結う華やかな髪形である。7月の祇園祭の頃から、手絡てがら絽縮緬ろちりめんなどの薄物を使い、手絡留めの役割もする、まげの左右の梵天ぼんてん飾りは、夏の季節にふさわしいものである。又、左の前挿しには祭り用の団扇うちわが飾られている。

 

 

こちらは三代歌川豊国が安政4年(1855)に描いた《江戸名所百人美女 花川戸はなかわど》。複雑で面倒そうな髪型ですが、当時の女性が自分で結っていたとは驚きです。

 

 

つづく