Tessai展② | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

京都国立近代美術館で見たTessai展の続きです。以下の文章は一部ポケットガイドから引用しました。

 

 

  第2章 鉄斎の旅 探勝と探求

 

三津浜みつはま漁市図》明治8年(1875)

清荒神清澄寺 鉄斎美術館

 

鉄斎は明治5年(1872)佐々木春子(ハル)と結婚して翌年以降、その故郷である伊予(愛媛県)へ何度か旅行しました。近畿から伊予への玄関口の一つが瀬戸内海に面した松山の三津浜であり、そこで廻船業を営んだ石崎家の旅館が鉄斎の定宿でした。明治8年11月の朝、石崎家「抱山枕海楼ほうざんちんかいろう」で目を覚ました鉄斎が、朝市の賑わいを見物してその様子を描いたのが本作品です。

 

 

渉歴しようれき余韻冊》明治8年(1875)

個人蔵

 

伊予松山の井門家への鉄斎の滞在が明治8年(1875)10月であることは、同家にあった池大雅の山水図三幅対への鉄斎の箱書から判明しています。同年、11月13日の《三津浜漁市図》には同日中に京へ帰る予定であると記されていますから、12月6日の本作品は帰洛後に制作され、送付されたと考えられます。滞在時の歓待への返礼だったのでしょう。三津浜の朝市を含む各地の旅行の思い出が表現されています。

 

 

《通天紅葉図》明治15年(1882)

清荒神清澄寺 鉄斎美術館

 

 

《嵐山秋楓かえで図》明治19年(1886)

清荒神清澄寺 鉄斎美術館

 

 

菟道とどう製茶図・粟田陶窯とうよう図》明治2年(1869)

清荒神清澄寺 鉄斎美術館

 

 

 

《盆踊図》明治時代

高島屋史料館

 

本作品の箱書には、久邇宮くにのみやの命を受けて制作したこと、それから数十年を経た大正9年(1920)1月に箱書をしたことが記されています。鉄斎と久邇宮家の関係は、明治10年(1877)7月、鉄斎が大宮司をつとめていた堺の大鳥神社に伊勢神宮祭主の久邇宮朝彦親王が参拝したことに始まります。明治32年前後、夏の五山送り火の夜には、荒神口の北にあった久邇宮邸で酒宴を開くのが恒例行事となっていました。

 

 

 

  終章 鉄斎の到達点 老熟と清新

 

《富士山図》明治31年(1898)

清荒神清澄寺 鉄斎美術館

 

 

 

《富士遠望図》明治38年(1905)

京都国立近代美術館

 

富士望遠図は、伊豆の日金山ひがねやまからの眺望を描きます。十国と五島を展望できることから十国峠と呼ばれるその山頂から、遠くに富士山を望んでいます。屏風の第5扇に見える石碑は天明3年(1783)十国峠の山頂に建立され、現存しています。

 

 

寒霞渓かんかけい図》明治38年(1905)

京都国立近代美術館

 

寒霞渓図は、明治37年(1904)11月3日、子息の謙蔵を伴って岡山経由で小豆島の土庄へ渡り、山頂から眺望した寒霞渓を描きます。賛ではその絶景を中国の元の画家、黄大痴こうだいちの山水画に擬なぞらえて「天然の黄大痴」と呼び、「我が師に遇ふ」と称えています。

 

 

 

妙義山みょうぎさん図・瀞八丁どろはっちょう図》明治39年(1906)

布施美術館

 

右隻には、群馬県にあって上毛三山の一つであり、日本三奇勝にも数えられる妙義山を描き、左隻には、熊野(三重県)と新宮(和歌山県)と吉野(奈良県)の境界にある峡谷、瀞峡の川の下流にある瀞八丁を描いています。

右隻の賛は、妙義山の金洞山こんどうさんの石門が林立する様子を称え、左隻の賛は、河の両岸に岩山がそびえ立つ様子を称えます。鉄斎は妙義山には明治36年(1903)信州滞在のあと赴きました。瀞八丁についても、明治元年末に那智の滝へ赴いたのをはじめ瀞峡の周辺を訪ねる機会は時折あり、その奇勝を実見していたと推察されます。

 

 

 

《青緑山水図》明治45年(1912)

清荒神清澄寺 鉄斎美術館

 

 

 

《阿倍仲麻呂明州めいしゅう望月もちづき図・円通大師呉門ごもん隠栖いんせい図》大正3年(1914)

公益財団法人 辰馬考古資料館

 

右隻の賛には、唐の玄宗皇帝に仕えた朝衝の漢詩を書き、朝衝が日本の阿倍仲麻呂である根拠を示し、仲麻呂の「天の原ふりさけ看れば」の歌を添えます。左隻の賛には、宋へ渡った円通大師こと寂照に帰国を願う藤原道長の手紙を引いています。仲麻呂も寂照も、中国へ渡ったまま帰国できず、望郷の念を抱きながら異国で名を成した人物です。

「白鷹」で知られる西宮の酒造家、辰馬悦叟を訪ね、歓待を受けた鉄斎が、約2週間の滞在中に感謝の意をこめて制作した渾身の大作です。昭和44年(1969)、重要文化財に指定されました。

 

 

 

《雪・月・花・茶詩書》明治~大正時代

京都市美術館

 

唐の詩人、白居易はくきょいが洛陽へ赴任するとき送別の酒宴で仲間たちが賦した「一字至七字詩」から、雪、月、花、茶それぞれに関する詩を書いています。「用鈴梅仙之製墨書之」と書かれ、明治期から大正期にかけて墨匠と称えられた紀州田辺(和歌山県)出身の鈴木梅仙が製造した墨を用いていることがわかります。

 

 

 

《鮮魚図》明治43年(1910)

愛媛県美術館

 

明治前期、鉄斎が妻の故郷である伊予(愛媛県)へ何度か旅行した際、定宿は三津浜で船問屋を営んだ石崎家の旅館で、同家の番頭だった近藤文太郎が鉄斎の世話をしました。のちに独立して海産物問屋を営んだ彼のため、鉄斎はその新商品を古事記に因んで二名煮と命名しました。近藤家から贈られた海産物への返礼のため鉄斎が描いた鮮魚の図は複数ありますが、本作品には「躬は波涛を隔つるも意は至れるかな」で始まる鉄斎自作の詩が賛として書かれ、長年の厚情への感謝が表されています。

 

 

蜃楼しんろう海市<かいし/rt>図》明治43年(1910)

公益財団法人 辰馬考古資料館

 

海市とは海上に現れる幻の都市のこと。蜃気楼とも呼ばれます。蜃は、龍とも蛤とも説明されますが、その謎の生物が吐き出した気によって楼閣が生み出されると考えられました。鉄斎が本作品の賛として書いた蘇東坡そとうばの詩では、春や夏の暖かな時期になると登州(山東省蓬莱県)の東方に「魚龍」が「珠宮しゆきゅう」(真珠の宮殿)を出現させるという伝説が述べられています。

 

 

碧桃へきとう寿鳥図》大正5年(1916)

高島屋史料館

 

桃とは西王母が持つ桃で、寿鳥とは西王母に仕える青い鳥。西王母とは、伝説上の山である崑崙山こんろんさんに住み、天に君臨する最高位の仙女であり、所有の蟠桃はんとう園にある桃の樹には三千年に一度だけ花が咲き、三千年に一度だけ実がなります。この桃を食べれば不老不死となります。漢の武帝に仕えた東方朔とうぼくさくがその桃を三度も盗んだという伝説が、本作品の賛に書かれています。

 

 

瀛州えいしゅう仙境図》大正12年(1923)

碧南市藤井達吉現代美術館(石川三碧コレクション)

 

 

嫦娥じょうが奔月ほんげつ図》大正12年(1923)

清荒神清澄寺 鉄斎美術館

 

 

《福内鬼外図》大正13年(1924)

清荒神清澄寺 鉄斎美術館

 

 

艤槎ぎさ図》大正13年(1924)

京都国立近代美術館

 

艤とは船を整えること。槎とは筏のこと、木を切ることを言います。ですから艤槎とは、船を準備して旅立つことを言うのでしょう。画面上部の左側にある鉄斎の賛によると、京都帝国大学東洋史学教授の内藤湖南こなんが欧州へ遊学するとき描いて贈った作品。画中の人物は湖南とその子息です。右側にある賛は、湖南が帰途に船中で作った七言絶句四首で、帰国後の大正14年(1925)2月に書きましたが、そのとき既に鉄斎は亡くなったあとでした。

 

 

鉄斎の功績は、中国画を日本風にアレンジした事なのかなと思いました。やはり、富士山などなじみのある景色の絵はすっと入ってきます。

 

 

ミュージアムショップでは、《青緑山水図(1912)》をモチーフにしたクリアファイルを買いました。私が最も鉄斎らしいと思った絵。裏表で1つの作品になっています。

 

 

 

そしてお土産に清荒神清澄寺オリジナルの「荒神ばうむ」を買いました。北海道生クリームと白あんが入っているとの事ですが…。ほのかに日本酒の味がします。

 

 

今回の展覧会で、清荒神清澄寺(兵庫県宝塚市)内に鉄斎美術館があり、そこに行けば常設で鉄斎の作品を見れることに気づきました。またいつか行こうと思っています。

 

 

おわり