Tessai展① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

5月17日(金)京都国立近代美術館。

 

 

Tessai展は最後の文人画家、富岡鉄斎(1836~1924)の没後100年を記念する展覧会。盛りだくさんで見応えありました。以下の文章は展覧会のパンフレットからの引用です。

 

 

幕末、京都の商家に生まれた鉄斎は、近世都市の商人道徳を説いた石門心学を中心に、儒学、国学、仏教などの諸学を広く学びながら同時に、南宗画、やまと絵など多様な流派の絵画も独学し、深い学識に裏付けられた豊かな画業を展開しました。

 

 

良い絵を描くためには「万巻の書を読み、万里の路を行く」ことが必要であるという先人の教えを重んじた鉄斎は、何を描くにもまずは対象の研究に努め、北海道から鹿児島まで全国を旅して各地の勝景を探りました。

 

 

そうして胸中に思い描かれた理想の山水を表出し、人間の理想を説いた鉄斎の絵画は、生前から今日まで国内外で高く評価されてきました。

 

 

幕末に人格を形成して明治初期には神官として古跡の調査と復興に尽力し、やがて官を辞して市井の画家として生き、大正13年(1924)の大晦日に数え年89で亡くなった鉄斎は、令和6年(2024)末で没後100年を迎えることになります。

 

 

京都では27年ぶりの鉄斎展。今回は画業の回顧に加え、室町通一条下ルの画室を彩ってきた文房具や旧蔵本、筆録などを通して、都市に生きた彼の日常を垣間見ました。

 

 

  序章 鉄斎の芸業 画と書

 

《三神山図》明治15年(1882)

公益財団法人 辰馬考古資料館

中国の東方の海(東海)には蓬莱、方丈、瀛洲えいしゅうという三つの島があり、不老長寿の神仙が住んでいるという伝説があります。これが三神山と呼ばれます。壺の形をした島であるとも言われています。秦の始皇帝が不老長生の霊薬を求めて東方へ徐福を派遣した話は司馬遷『史記』で有名です。

 

 

《空翠湿衣図》明治時代

清荒神清澄寺 鉄斎美術館

 

 

《神教良薬図》明治時代

個人蔵

鉄斎は妻の故郷である伊予へ何度か旅行し、当地の裕福な文人たちと親しく交わりました。そうした友の一人が、松山で薬種商を営んだ井門久平です。冲宵楼主と称しました。明治8年10月に鉄斎が同家に滞在して以降、交友は続き、明治15年に井門久平が亡くなった時鉄斎は「二州軒南陰誠史居士」の戒名を書きました。「神は良薬を教ふ」と題された本作品には数種の薬草が描かれ、「井門薬店」の薬学の見識が称えられています。

 

 

《燕間四適図》明治時代

京都国立近代美術館

 

 

《漁樵問答図》明治33年(1900)

京都市美術館

 

賛の出典は、宋の易学者、卲雍しょうようの「漁樵問対ぎょうしょうもんたい」。樵者の問と世界の真理を説きます。右隻では、人間の力には限界があり、限界内で頑張れば最大の利益を得るが、限界を超えれば逆に損をするという教訓。左隻では、成果を得るには十分な準備が必要であり、準備不足で失敗したなら人間に責任があるが、準備しても失敗したなら天が味方しなかっただけであり、人間に責任はないという教訓が説かれます。

 

 

《字幅(耕漁荘書)》明治29年(1896)頃

京都市美術館

鉄斎は京都日本画壇の巨匠たちとの交友を楽しみました。森寛斎も岸竹堂も鈴木松年も幸野楳嶺も友であり、楳嶺の高弟、竹内栖鳳とも自ずから親しくなりました。栖鳳が御池通油小路西入ルの自宅に新築した画室を「耕漁荘」と名付けたのは鉄斎であり、そのとき書き贈られた本作品は、以後、栖鳳の寝室に掛けられていました。

 

 

《養素斎書》明治31年(1898)

京都府(京都文化博物館管理)

鉄斎は京都日本画壇の巨匠、今尾景年と親しく交わりました。景年の新居を祝う本作品について今尾家に遺る鉄斎の書付によれば、「養素」とは、宋の画家、郭熙かくきの著『林泉高致』山水訓にある「丘園養素」に因み、「世ノ塵埃ニ染ラズシテ高尚ノ気象ヲ養フ」という意味が込められた語であり、「素」とは「我心ノ潔白」で、「養」の本意は「我心ヲ養ヒ哲人トナル」にあると説明されます。景年の人柄への鉄斎の敬意が伝わってきます。

 

 

《匂白字詩七絶》明治時代

清荒神清澄寺 鉄斎美術館

 

 

  第1章 鉄斎の日常 多癖と交友

 

《雲龍図》明治44年(1911)

鳩居堂きゅうきょどう

明治44年の大暑の季節、鳩居堂が鉄斎のため書画に用いる墨を作りました。その使い心地を試してみるため鉄斎が描いたのがこの龍の図です。「平家物語」に登場する熊谷直実を祖先とし、徳川時代以降は薬種や線香や文具を商った熊谷家の鳩居堂と、鉄斎との間には長い付き合いがありました。慶応4年(1868)頃には、鉄斎の親友だった国学者の矢野玄道が鳩居堂に住んでいたことが、大田垣蓮月宛の鉄斎の書簡に記されています。

 

 

売茶翁ばいさおう図》大正13年(1924)

株式会社 虎屋

徳川時代中期の京都に住んで煎茶道具を担って歩き、人々に煎茶を供した禅僧、売茶翁(高遊外)は、伊藤若冲や池大雅との交友でも知られ、煎茶と仏道と画道を愛した鉄斎にとっても敬愛する先人の一人です。三熊思孝が描いた売茶翁像に基づく本作品は、鉄斎が「愛弟子」と呼んだ虎屋京都店の支配人の黒川正弘(号魁亭)のため制作され、大正13年6月15日、宇治の黄檗山萬福寺で

魁亭が催した売茶翁供養茶会で飾られました。

 

 

品川弥二郎/森寛斎/富岡鉄斎

《七生之巻》明治21年(1888)

個人蔵

題簽だいせんには「勤王之巻」と題されています。巻頭には品川弥二郎が題字「七生」を書き、巻末には森寛斎が「錦の御旗図」を描いています。両名とも長州藩の勤王を、同時代の瓦版や明治期の新聞などによって振り返る資料集となっています。編者は不明ですが、長州藩を支持する立場の者でしょう。しかし寛斎の絵に続く鉄斎の奥書は、幕末の世間の酷さを想起して王政一新による平和の到来を喜び、「義徒志士」を礼賛するよりはむしろ歴史資料保存の意義を説きます。なお、題簽も鉄斎の書でしょう。

 

 

《椎根津彦像》明治12年(1879)

個人蔵

三幅対の内、中幅に描かれたのは神武天皇の巨下、椎根津彦です。東征の途上、苦戦した神武天皇は、天香久山の土で祭器を造って天神地祇に祈れば勝てるとの夢のお告げに従い、椎根津彦と弟猾に老夫婦の扮装をさせ、敵軍の支配下にあった天香久山へ密かに遣わし、土を奪わせました。

 

 

《土神建土安神社図》明治12年(1879)

個人蔵

右幅に描かれたのは天香久山に鎮座する土の神、畝尾坐健土安神社。


 

《平盆図》明治12年(1879)

個人蔵

左幅に描かれたのは神武天皇の神事に用いられた土器です。三幅とも埴土の神聖な力を表しています。鉄斎の親友だった陶工、四代清水六兵衛のための作品です。

 

 

《高士肥遯図》明治22年(1889)

碧南市藤井達吉現代美術館(石川三碧コレクション)

 

 

難しいイメージが強い文人画。鉄斎の生きた時代には縁起物として都市の商人たちの間で親しまれていたとは意外でした。

 

 

つづく