雪舟伝説① | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

京都国立博物館で見た「雪舟伝説」を振り返ります。以下の文章は展覧会の公式サイトから引用しました。

 

 

  雪舟ってどんな人?

 

雪舟(1420~1506?)は、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれました。幼い頃に上洛して相国寺に入り、禅僧としての修行を積むかたわら、室町幕府御用絵師であった周文に画を学びます。

 

 

やがて周防(現在の山口県)に下り大内氏の庇護を得ると、応仁元年(1467)には遣明使節の一行に加わり入明を果たしました。

 

 

足掛け3年に及ぶ在明ののち帰国したあとは、はじめ豊後(現在の大分県)、のち再び周防を主な拠点としながら旅を重ねました。宋元画を学んだ幅広い画風と骨太で力強い筆墨に特色ある作品を残しています。

 

 

  第1章 雪舟精髄

 

雪舟筆と伝わる作品は数多く残っていますが、誰もが間違いないと認める作品は決して多くはありません。第1章では、数ある雪舟画のうち代表作と呼び得る作品を通して、「画聖」の原点を確認しました。6件もの作品が国宝に指定されていることが象徴的に示しているように、雪舟に対する現在の評価は突出したものがあります。

 

 

国宝《秋冬山水図》

雪舟筆 室町時代(15世紀) 東京国立博物館蔵

 

教科書にも頻繁に掲載されるなど、雪舟の最もよく知られた作品です。荒々しく強い筆致、独特の画面構成など、小画面に雪舟らしさが凝縮されています。昭和11年(1936)までは京都の曼殊院に所蔵されていました。

 

右幅

 

左幅

 

 

国宝《破墨山水図》

雪舟筆 室町時代 明応4年(1495) 東京国立博物館蔵

 

雪舟が弟子の求めに応じて描いた作品。中国の画僧玉澗にならい、濃淡の墨面を広げるようにして山水が描かれています。この絵の制作経緯や、入明経験を経て理解した師の尊さなどが、雪舟自身の手で記されている点でも重要です。

 

上部

 

中部

 

下部

 

 

国宝《四季山水図巻(山水長巻)(部分)》

雪舟筆 室町時代 文明18年(1486) 山口・毛利博物館蔵

 

長さ16メートルにおよぶ大作。様々な山水表現をまとめた絵手本のような作で、室町将軍家秘蔵の中国の山水画巻をモデルにしたともいわれています。のちに毛利家から雲谷等顔に付与されました。

 

 

 

 

 

国宝《天橋立図》

雪舟筆 室町時代(16世紀) 京都国立博物館蔵

雪舟が天橋立を克明に描いた大作。現地での写生をもとに晩年に描いたものと見られますが、下絵であり本画は現存しません。複数の地点から眺めた広範な景観を美しくまとめ上げる構成力に、雪舟の非凡な力量が見て取れます。

 

 

重要文化財《四季花鳥図屏風(右隻)》

雪舟筆 室町時代(15世紀) 京都国立博物館蔵

無款ながら雪舟筆と考えられている作品。山水画の印象が強い雪舟ですが、そればかりでなく、仏画や花鳥画も多く手掛けていました。原本に加え、雲谷等益による模本(東福寺蔵)を通じて、多くの画家にインスピレーションを与えてきました。

 

 

  第2章 学ばれた雪舟

 

第2章では、近世においてよく知られ、それゆえに大きな影響力をもった作品を見ました。現在では雪舟その人の作ではないと見なされるものも含まれますが、こうした作品を通して、近世の雪舟理解は深まり、その主題や様式が継承されてゆくのです。

 

 

 

《富士三保清見寺図》

伝雪舟筆 室町時代(16世紀) 東京・永青文庫蔵

富士山と三保松原、清見寺を安定した構図のうちにまとめ上げた作品で、熊本藩主細川家に伝来しました。江戸時代には雪舟が明で描いた作品と信じられ、数多くの後継作品を生み出しました。

 

 

  第3章 雪舟流の継承―雲谷派と長谷川派

 

雪舟は、秋月や宗淵、等春など多くの弟子を育てましたが、その画系は必ずしも長くは続かなかったようです。そんな雪舟の画風を継承、再生させたのは、桃山時代の雲谷等顔(1547~1618)や長谷川等伯(1539~1610)でした。彼らは雪舟に師事したわけではありませんが、その後継者を名乗り、雪舟画風を規範とする作品を数多く制作しました。

 

 

重要文化財《山水図襖》

雲谷等顔筆 桃山時代(16〜17世紀) 京都・黄梅院蔵

 

モチーフ、描法ともに雪舟筆「四季山水図巻(山水長巻)」を参照して描いたことが明らかな作品です。等顔は、毛利家から雲谷庵(雪舟のアトリエ)と山水長巻を拝領し、名実ともに雪舟流の後継者として活躍しました。

 

右隻

 

左隻

 

 

《竹林七賢図屏風》

長谷川等伯筆 桃山時代 慶長12年(1607) 京都・両足院蔵

 

雲谷等顔と同時代に活躍した等伯も、雪舟流の後継者を自称しました。この作品には「自雪舟五代」(雪舟より五代)と記されており、後継者としての自負が明瞭です。さらに言えば、こうした名乗りが一種の権威として機能したと考えられる点は重要です。

 

右隻

 

左隻

 

 

つづく