蘭花譜と大山崎山荘 大大阪時代を生きた男の情熱 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

5月4日(土)アサヒグループ大山崎山荘美術館。

 

 

蘭花譜らんかふと大山崎山荘 だい大阪時代を生きた男の情熱」を見ました。今時珍しく撮影禁止です。以下の文章は、ウィキペディアに山崎観光案内所のHP、美術館のパンフレットから引用しました。

 

 

  1.加賀正太郎と大山崎山荘

 

加賀正太郎は、明治21年(1888)1月17日、大阪船場の富商・加賀商店の長男として生まれました。加賀商店は江戸時代から両替商として商売を行っていましたが、明治に入ると証券業に参入、成功を収めます。

 

 

正太郎の父である加賀市太郎は優れた経営者でありますが、正太郎が12歳の時に死去。家督を相続しますが、母親の判断で成人するまでは、家業は継がないことになりました。成長し、東京高等商業学校(現一橋大学)入学後、欧州に遊学します。

 

 

イギリス滞在中にキュー・ガーデンなどで蘭栽培を見学し、帰国。学業を終えると大阪に帰り、明治44年(1911)に家業を再開し、証券会社(加賀証券)を設立し成功を収めました。

 

 

その一方で、正太郎は欧州遊学で見た蘭の美しさが忘れられず、当時、不可能と思われていた日本での栽培を試みるようになります。さらに、山崎の地にウィンザー城からの眺めに似た情景が望めるとして、山荘を20年がかりで建築しました。

 

 

それが大山崎山荘で、明治44年(1911)の土地取得に始まり、「道路、建築、温室、水流、庭園、田畑、山林の植樹等々一木一石の末に至るまで」彼独自の考案設計によるという、こだわりぬいたものでした。

 

 

山荘の名前を決める際、夏目漱石(1867~1916)に相談しましたが、漱石が提案した名前がどれも気に入らず、結局自分で決めたというエピソードもあります。

 

 

当初は週末の別荘でしたが、電灯、電話の普及、交通の整備も進んだため建築の規模を拡張し、やがて山荘が居所となりました。

 

 

  2.大山崎山荘を訪れた人々

 

山荘の建設が始まって間もない大正4年(1915)に招いた夏目漱石を筆頭に、山荘には多くの政財界人、文化人が訪れ、さながらサロンのようでした。正太郎の人脈の多くは、大正元年(1912)に誕生した大阪倶楽部によって培われたものと思われます。

 

 

大正14年(1925)に人口・面積で日本一となり、世界有数の大都市であった大阪はこの頃「大大阪」と称され、日本経済を牽引する大阪財界人たちが集っていたのがこの倶楽部でした。

 

 

また大正11年(1922)、新宿御苑から呼び寄せた技師・後藤兼吉の存在は、山荘における蘭栽培を大きく躍進させるものとなりました。

 

 

  3.加賀正太郎の家族・親戚

 

祖父・加賀定次郎(?~1895)は金銀貸仲買人。明治9年(1876)の堂島米会所こめかいしょの創立に関わりましたが、肝煎きもいり選挙に落選し1月ほどで退社しました。

 

 

叔父・加賀豊三郎(1872~1944)は株仲買人。父定次郎と大阪で加賀銀行を創立。上京後東京株式取引所仲買人の免許を得て、兜町で開業し、成功しました。東京府多額納税者で蔵書家。号を翠渓、居宅を洗雲亭と称し、趣味人としても知られています。

 

 

弟・加賀慶之助(1896~?) は 大阪株式取引所仲買人で加賀土地役員を務めました。妻の兄に芦屋村戸長・久保平兵衛がいます。

 

 

妹・キク(1889~?)は、増田伸銅所代表・増田政治の妻。夏(1894~?)は、野村銀行の頭取・野村元五郎の妻。富貴(1899~?)は龍紋氷室の社長・山田啓之助の妻。

 

 

妻・千代子(1895~?)は、邦楽器商「妙治號」の社長・豊田とよだ治助じすけの姉。正太郎と千代子の間に子供はいなかったようで、甥・行三(1908~1991、叔父の豊三郎の三男)を養子に迎えています。

 

 

  4.加賀正太郎の挑戦

 

明治43年(1910)ロンドンの日英博覧会見物の帰途で、そこでかねてより計画していたスイスアルプスの高峰・ユングフラウ(4158m)の登頂に成功。日本人初の快挙となります。その時の経験から、ヨーロッパの登山用具・装備を日本に紹介しました。

 

 

多趣味だった正太郎は、ユングフラウ登頂をはじめ、大阪倶楽部の面々とともに、大阪初のゴルフコース(茨木カンツリー倶楽部)建設に尽力するなど、多くの事績を残しました。

 

 

昭和9年(1934)には、山崎蒸溜所を立ち上げたもののオーナーとの路線対立して離れた竹鶴政孝(1894~1979)を支援して大日本果汁(後のニッカウヰスキー)創立に参加します。日果ニッカの筆頭株主となり、社内では御主人様と呼ばれました。

 

 

しかし、第二次世界大戦が始まると正太郎の事業にも陰りがみえはじめ、戦後もその建て直しができないまま昭和29年(1954)に喉頭ガンで亡くなりました。

 

 

正太郎の死後、山荘は人の手に渡りますが、アサヒビール株式会社が地元の人々の景観保護の訴えに答えて山荘を購入、現在の美術館となっています。

 

 

  5.~百花繚'蘭'~『蘭花譜』の世界

 

正太郎自身が「終生のホビー」と語っているように、彼が生涯をかけて最も情熱を注ぎこんだのは蘭栽培でした。イギリスのキュー王立植物園で洋蘭栽培を目にした彼は、山荘の裏手に温室を設け、自ら蘭栽培を始めます。

 

 

1万に近い鉢が栽培されていたという温室内では、交配種がいくつも生み出され、「オオヤマザキ」の名がつけられたものも多くありました。

 

 

正太郎自身が蘭栽培の記録として制作・監修した『蘭花譜(1946)』は、植物図譜としてだけではなく、木版画としても高い魅力を誇っています。

 

 

  6.日本のウイスキーの父、竹鶴政孝

 

19世紀にウイスキーがアメリカから伝わって以来、日本では欧米の模造品のウイスキーが作られていただけで純国産のウイスキーは作られていませんでした。そこで摂津酒造は純国産のウイスキー造りを始めることを計画します。

 

 

大正7年(1918)、竹鶴政孝は社長の阿部喜兵衛、常務の岩井喜一郎の命を受けて単身スコットランドに赴き、グラスゴー大学で有機化学と応用化学を学びます。

 

 

彼は現地で積極的にウイスキー蒸留場を見学し、頼み込んでエルギンのロングモーン蒸留所で実習を行わせてもらうこともありました。

 

 

最終的にキャンベルタウンのヘーゼルバーン蒸留所で実習を行っていて、ウイスキー用の蒸留釜(ポットスチル)の内部構造を調べるため、専門の職人でさえ嫌がる釜の掃除を買って出たという逸話も残っています。

 

 

  7.竹鶴政孝と加賀正太郎

 

竹鶴政孝はスコットランドから帰国した際、帝塚山に洋風高級賃貸物件を借りて住んでいました。その時の大家である芝川又四郎が、加賀正太郎と須磨の別荘が隣どおしだった事もあり、面識があったようです。

 

 

大正13年(1924)から、政孝が寿屋(現サントリー)の鳥井信治郎社長から請われて、山崎にウイスキー国産化の工場を新設すると、政孝は工場長として山崎に住む事となりました。

 

 

偶然にも正太郎と住まいが近い間柄となり、親交するようになりました。政孝の妻・リタは正太郎の山荘に通い、正太郎の妻・千代子に英会話を教えたと言います。

 

 

やがて、本物のスコッチウイスキー製造にこだわりたい政孝が、北海道の余市にウイスキー工場を作る計画を知った正太郎は、資金面で支援して出資金の70%を負担して筆頭株主になりました。

 


昭和9年(1934)に大日本果汁株式会社(愛称日果ニッカ)を設立。当初はりんごジュースを販売していましたが、ブランデー・ウイスキー製造免許を取得。昭和13年(1938)アップルワインの販売を開始し、昭和15年(1940)にウイスキーとブランデーの販売にこぎつけました。

 

 

昭和27年(1952)、瓶詰を目的とした東京工場を東京都港区麻布に開設。本社を東京都中央区日本橋に移転し、商号をニッカウヰスキー株式会社に変更しました。

 

 

一方、正太郎の事業は太平洋戦争の影響で衰退。晩年は病を患い、昭和29年(1954)に朝日麦酒株式会社 (後のアサヒビール株式会社) の社長・山本為三郎(1893~1966)に持ち株を売却。ニッカは同社の傘下に入ります。

 

 

  8.展覧会の感想など

 

登場人物が多すぎて混乱したため、展示室を2巡しました。人脈が広く、華やかな人生を送った加賀正太郎。一見実業家として成功しているようですが、仕事より趣味に生きたため、晩年本業の証券会社が傾いたと思われます。

 

 

加賀正太郎没後70年、ニッカウヰスキー90周年を記念した展覧会。サントリーとニッカウヰスキーとアサヒビールの関係、サントリー山崎蒸留所とアサヒグループ大山崎山荘美術館の絡みがよく分かりました。

 

 

展示物を見た後は売店でアサヒのワインケーキを購入。

 

まだ食べていませんが、フルーティーな味を期待しています。

 

 

他、図録『蘭花譜』の代わりに、クリアファイルを買いました。

 

1点目が『蘭花譜』No.72 レリオカトレヤ。

 

裏面に大山崎山荘の玄関や、ラン温室(外観)の写真があります。

 

 

2点目が、『蘭花譜』No.25 ブラッソカトレヤ・エンブレス オブ ロシア 'オオヤマザキ' と、No.64 パフィオペディルム・ハイナルディアヌム。

 

裏面にラン温室(内部)の写真があります。

 

 

館内の撮影は禁止でしたが、お庭の撮影は可能でした。次回その事を記事にします。

 

 

つづく