福田平八郎 | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

3月30日(土)大阪中之島美術館。モネ展の次は「没後50年 福田平八郎」展を見ました。

 

 

ナレーターは声優の駒田航(1989~)さん。心地の良い声で、話すスピードも適切で、絵の世界にすっと入り込めました。

 

 

それでは内容に入ります。概要は公式サイトから、作品の解説は展示のキャプションから引用しました。

 

 

  第1章 手探りの時代

 

大分市に生まれた福田平八郎(1892~1974)は、18歳のとき画家を志し京都に出て、京都市立美術工芸学校、京都市立絵画専門学校で絵を学びました。この時期の作品は、習画期ということもあり、作風に統一感がなく特徴をつかみにくいところがありますが、伝統的な日本画や同時代の新しい傾向の作品にも興味を示し、自らの進むべき道を模索していたあとがうかがえます。

 

《池辺の家鴨》

大正5年(1916)

 

《緬羊(左隻)》

大正7年(1918)

 

 

  第2章 写実の探求

 

京都市立絵画専門学校の卒業制作に悩んだ平八郎は、美学の教授・中井宗太郎に相談し、対象と客観的に向き合うことを決意します。こうして大正後半から昭和のはじめにかけての平八郎は、対象を細部まで観察し、徹底した写実表現を試みた作品を発表していきました。

 

安石榴ざくろ

大正9年(1920)

 

第2回帝展に出品し、2回目の入選を果たした作品です。渦巻くような動勢を伴いながら伸びる安石榴の枝ぶりなど、後年の作品には見られない動的な表現が目を引きます。

 

その濃密な色彩と独特な陰影を施した写実表現は、当時、京都の若手作家を中心に絶大な支持を集めていた国画創作協会の画家たち、中でも榊原さかきばら紫峰しほうの影響が指摘できます。

 

 

《朝顔》

大正15年(1926)

 

竹垣に朝顔という日本画の定番の画題を平八郎流に写実本位で描き出した作品。

 

まだ堅い蕾から、咲きかけの花、開花した直後の花まで、いろいろな花の状態を丁寧に観察して写し取っており、花びらの薄く透けるような感じや一枚一枚の葉の陰影まで克明にとらえています。竿に絡みつき天に向かって伸びていくつるの表現からは、植物の旺盛な生命力が感じられます。

 

 

  第3章 鮮やかな転換

 

平八郎は、昭和のはじめころから、形態を単純化し、鮮烈な色彩と大胆な画面構成を特徴とする独自の装飾的表現へと向かいます。そして、昭和7年(1932)の第13回帝展に《さざなみ》を発表し、日本画の新たな表現の可能性を画壇に問いかけました。

 

《漣》

昭和7年(1932)

 

金箔の上にプラチナ箔を重ねた画面に、群青のみで細かに波打ってきらきらとゆらめく水面の表情を描いています。同年に始めた釣りに凝っていた平八郎は、釣り竿と写生道具を手に琵琶湖を一周しました。そこで誕生したのが本作です。

 

日本画の装飾的伝統に自然観察による写実を融合した本作は、近代日本画の新境地と高く評価されています。モチーフや色彩を限定した簡潔な構成はリズム感に富み、抽象絵画ともみまがう音楽的な美しい画面をつくりだしています。

 

 

《青柿》

昭和13年(1938)

 

《竹》

昭和17年(1942)

 

 

  第4章 新たな造形表現への挑戦

 

第二次世界大戦後の美術界では、伝統的な日本画への批判が高まりましたが、平八郎は確固とした信念で日本画の表現の可能性を模索しました。こうして、徹底した自然観照によりながら、対象がもつ造形の妙を見事に抽出し、写実と装飾が高い次元で融合した傑出した作品がいくつも誕生しました。

 

《筍》

昭和22年(1947)

 

 

新雪しんせつ

昭和23年(1948)

 

庭石に降り積もった真っ白な新雪。平八郎は、降り止んだ直後の、いまだ雪の結晶した輝きが感じられるところを、写実本位で感覚的に描いたと言います。石は裏千家の路地と光悦寺こうえつじの庭で写生したものを組み合わせ、雪は明るい紫色の下地に胡粉こふんを置いて刷毛で叩くという作業を繰り返して新雪の明るく軽い実感を出しています。

 

 

《雲》

昭和25年(1950)

 

深みのある鮮やかな青い空と、わきあがるような白い雲。空の青はプルシアンブルーなどの化学合成顔料が使用された可能性があります。白い雲は輪郭の周囲がやや薄く塗られ、丸みや奥行きを表していますが、陰影表現を抑えて雲の真っ白さを強調するかのようです。

 

 

《雨》

昭和28年(1953)

 

 

《氷》

昭和30年(1955)

 

抽象画のようにも見えますが、平八郎が自庭の手水鉢に張った氷の縞模様に興味を覚え、それを写しとった写生をもとに制作した作品です。薄く張った氷やその重なり、空気の層、光や水が生む一瞬の造形の妙を捉え描き表します。

 

 

《桃》

昭和31年(1956)頃

 

平八郎は昭和20年代後半頃から静物画をよく描くようになりました。なかでも桃は、夏になると毎年のように描いていたモチーフで、その配置や下に敷くお盆や敷物などを変えた様々な作例が残ります。本作は桃の黄と盆の朱の鮮やかな色彩が印象的であり、艶のある盆への映り込みを含め、最適な構図を求めて桃の置き方を試行錯誤したことが想像されます。

 

 

  第5章 自由で豊かな美の世界へ

 

平八郎は、昭和36年(1961)を最後に日展への出品を止め、以後は、小規模な展覧会に心のおもむくままに制作した小品を発表します。作風は晩年になるにつれ、形態の単純化が進み、線も形も色彩も細部にとらわれない大らかな造形へと展開します。

 

《花の習作》

昭和36年(1961)

 

 

海魚かいぎょ

昭和38年(1963)

 

カラフルな色面をバックに泳ぎ回る色鮮やかな魚たち、海底ではタコがうずくまり、大きな口を開けたウツボが下からのぞいています。

 

明るく開放的な色彩、奥行きを無視した大胆な構図でまとめ上げられた画面には子どもの絵のような無邪気さが溢れています。

 

本作品は昭和12年(1937)に旅行した和歌山県の白浜水族館で写し取った写生をもとに制作したもの。20年以上の時を経て、あらためて写生帖を見返して創作を思いついたのでしょう。

 

 

鸚哥いんこ

昭和39年(1964)

 

 

游鮎ゆうねん

昭和40年(1965)

 

魚釣りを始めたことをきっかけに生涯を通して繰り返し描いた鮎の晩年の作例。平八郎は子どもの絵を見て「この形を私の描くコイに使えないかな」などと着想することがあったと言いますが、本作の描き方や予定調和ではない自由な構図も子どもの絵を思わせます。

 

尖った頭の形や、鮭や鮎に特有の脂鰭あぶらびれ(背鰭と尾鰭の間の鰭)を色を違えて描く点など、対象に忠実な姿勢も看取されます。

 

 

  素描・写生帖

 

「写生狂」を自称した平八郎は、いつも写生帖を持ち歩き、対象と真摯に向かい合い続けました。最後の展示室には、平八郎の瑞々しい感動を伝え、名作誕生の過程を示す貴重な写生作品が並びます。

 

《花菖蒲》

昭和10年代

 

《カーネーション、百合》

昭和17年(1942)

 

《紅白餅》

昭和24年(1949)

 

《うす氷》

昭和24年(1949)

 

《栗・松茸》

昭和20年代

 

《紙テープ》

昭和30~40年代

 

 

《水》

昭和33年(1958)

 

「描くのに水ほど興味があり、また水ほど困難なものはない。それは単純に見えて複雑であり、同一であって無限の変化がある。」絶えず表情を変える水の魅力にとりつかれた平八郎は、生涯に渡り膨大な数のスケッチを残し、多くの作品の中で様々な水の表現を試みています。

 

本作品は足かけ30年にわたる構想の末に到達した水の表現の集大成といっていいもの。揺らめく水の様相をとらえたその造形は、一見抽象画のようにも見えるが、自然の中に潜む神秘的な美しさを見事に捉えています。

 

 

  新発見資料

 

これまで存在を知られていなかった新発見の作品《水》。昭和10年(1935)頃の制作と考えられ、平八郎が追い求めた水の表現の一側面を示す貴重な作例です。

 

 

  感想

 

福田平八郎の作品は京都画壇の展覧会で何度か見た事はありますが、このように初期から晩年までの作品を時系列で見たのは初めてでした。空気や水の表現が巧み。特に《漣》は重要文化財に指定されている代表作で、絵の前に立っていると、あたかも波打ち際にいるような錯覚に陥ります。

 

 

特設ショップで《漣》のクリアファイルを買いました。

 

アルミ蒸着のファイルで、このように紙を挟むと波の群青だけが浮かび上がります。

 

 

今回のお土産は平八郎の絵に登場した「薄氷」。富山特産の新大正餅と高級和三盆糖から作られている銘菓で、食べると薄氷が溶けるように口の中でスッと溶け、後に和三盆糖の風味が残ります。