モネー連作の情景ー | 散策日記Ⅰ

散策日記Ⅰ

美術館&博物館で開催された展覧会の記録、それにまつわる散策記です。

3月30日(土)大阪中之島美術館。

 

 

「モネー連作の情景」は人気の展覧会で、混んでいるのは承知の上でしたが、想像以上でした。

 

 

チケット売場は長蛇の列。人が多すぎて作品に近寄れず。解説文を読むのは不可能。これほど音声ガイドのありがたみを感じた事はありません。

 

 

それでは展覧会の内容に入ります。以下の文章は公式サイトから引用しました。

 

  第1章 印象派以前のモネ

 

1840年にパリで生まれたモネはル・アーヴルで成長し、風景画家ブーダンとの出会いを契機に戸外で絵を描き始めました。画家を志して18歳でパリに出て、アルジェリアでの兵役を経て絵の勉強を続けます。画塾で出会ったピサロ、ルノワール、バジールらと親交を深めました。

 

 

画家の登竜門であるサロンに1865年に初入選しますが、審査の厳しくなった保守的なサロンでは評価されず、その後は落選が続きます。1870年に普仏戦争が始まるのを機に、妻子とともにイギリスとオランダに滞在しました。

 

《昼食》1868~69年

 

《ルーヴル河岸》1867年頃

 

 

  第2章 印象派の画家、モネ

 

1871年末から、モネはパリ郊外のアルジャントゥイユで暮らし始めます。モネと仲間たちは1874年春、パリで第1回印象派展を開催し、サロンとは別に発表の場を設けて活動しました。

 

《印象、日の出》1874年

 

 

アトリエ舟で自在に移動し、セーヌ川流域を拠点に各地を訪れて描くなど精力的な制作の一方で、景気後退により経済的に困窮し、1879年には妻カミーユが亡くなるなど苦しい時期でもありました。

 

《モネのアトリエ舟》1874年

 

《ヴェトゥイユの教会》1880年

 

 

  第3章 テーマへの集中

 

モネは新たな画題を求めて、パリ近郊はもちろん、ノルマンディー地方やブルターニュ地方、地中海の港町などヨーロッパ各地を訪れて制作します。時には数ヶ月も滞在して、人影のない海岸などを好んで描きました。

 

 

特にノルマンディー地方のプールヴィルの海岸やエトルタの奇岩には何度も訪れたようです。滞在中、同じ対象であっても季節や天候、時刻によって、海や空、山や岩肌の表情が絶え間なく変化する様子をモネはカンヴァスに描き留めました。

 

《ラ・マンヌポルト(エトルタ)》1883年

 

《ヴェンティミーリアの眺め》1884年

 

 

  第4章 連作の画家、モネ

 

1883年、モネはセーヌ川流域のジヴェルニーに定住します。やがて、自宅付近の積みわらが光を受けて刻々と変化する様子を同時進行で何枚も描くようになりました。1891年にデュラン=リュエル画廊でそれらを「連作」として展示すると大好評を博し、国際的な名声を築きました。以後は別のテーマでも次々と連作に着手します。

 

《ジヴェルニーの積みわら》1884年

 

《積みわら、雪の効果》1891年

 

 

1899年からはロンドンを訪れ、〈チャリング・クロス橋〉や〈ウォータールー橋〉などに取り組みました。「連作」という手法の着想源の一つにはモネが愛好した日本の浮世絵版画の影響も指摘されています。

 

《チャリング・クロス橋、テムズ川》1903年

 

 

〈ウォータールー橋〉の連作

 

ロンドンで描かれた連作中最多の41点が残ります。宿泊していたサヴォイ・ホテルからテムズ川の下流方向、南東を向いて朝早くに描かれたものが多いです。これらの作品は、モチーフの橋そのものよりも、光のプリズムが生み出す色彩の微妙なハーモニーが主役となっています。ロンドンの作品の多くはジヴェルニーのアトリエに持ち帰って手を入れ続け、「連作」として表示する際の効果を高めようとしました。

 

《ウォータールー橋、曇り》1900年

 

《ウォータールー橋、ロンドン、夕暮れ》1904年

 

《ウォータールー橋、ロンドン、日没》1904年

 

 

  第5章 「睡蓮」とジヴェルニーの庭

 

ジヴェルニーの自宅はモネの創作にとって最大の着想源となりました。「花の庭」と「水の庭」を本格的に整備し、花壇の草花や、睡蓮のある池を描いています。

 

《芍薬》1887年

 

《藤の習作》1919~20年

 

 

次第に制作の大半は〈睡蓮〉となり、池の水面に映る色と光の抽象的なハーモニーが次々に誕生します。晩年のモネは、後妻のアリスや家族に支えられ、視覚障害に悩みながらも86歳で亡くなるまで制作を続けました。

 

 

〈睡蓮〉を描いた作品

 

《睡蓮》1897~98年頃

モネは自邸に造った池で睡蓮を栽培し、周りには柳やポプラを植えました。本作はモネが最初期に描いた〈睡蓮〉で、大ぶりなふたつの花と円い葉が暗い水面に浮かんでいます。空や樹木の水面への映り込みや、光と水が戯れるような表現はまだ見られず、モネの視線は睡蓮だけに集中し、色の組み合わせによる描写の研究に没頭しています。

 

 

《睡蓮の池》1907年

モネは1899年頃から〈睡蓮〉に本格的に取り組んみました。模索を続けて見出した会心の構図が、この縦長の画面です。大胆に俯瞰して池の水面だけを描き、楕円形の睡蓮の葉が手前から奥へリズミカルに配されます。しだれ柳を右に、ポプラの樹を左に、樹木の姿が水に映り込んで暗い影を落とし、中央には流れ落ちる滝のような形に明るい空が映ります。空も樹々もまるで風景のように見え、虚と実が交錯して観る者を惑わせます。

 

 

《睡蓮》1914~17年

 

 

《睡蓮、柳の反射》1916~19年

 

 

《睡蓮の池》1918年頃

大画面に明るく暖かい色彩のハーモニーがゆったりと広がります。明るい空の輝きと池を囲む樹木が水面に映り、その鏡像が池の睡蓮と溶け込むように交じり合います。右奥に柔らかい影を落とすのは、しだれ柳でしょう。モネは集大成なる「大装飾画」の構想へと向かい始めており、本作においても観る者を壮大な世界へと誘い、包み込みます。

 

 

画業を時系列で見る事により〈積みわら〉から〈睡蓮〉に至るまでの過程がよく分かりました。それにしてもモネって、アトリエ舟を作ったりジヴェルニーの庭を造ったり、同じ画題を何度も描いたり凝り性だったんですね。色の使い方が巧みな事から、お洒落でセンスの良い人物像が思い浮かびました。